2010年08月25日

ピラニア。


 ちょいと躯を半回転ほどひねるだけで一周が終わっちまう狭い水槽。やけに息のしやすい透き通った水。俺には理解不能な、はっきりいって泳ぐのに邪魔なキラキラ光る作り物。
 それが今、俺の置かれている世界だった。
 住み心地は多分、いいんだろう。多分っていうのはあくまで一般的な評価だ。作り物は邪魔だが定期的に掃除もされるし、酸素もふんだんに供給されているし、暑くもなければ寒くもない。
 だが呼吸をする俺のえらが、そして俺の肌が本能的に訴える。俺が欲しているのは、もっと視界の濁った有機物がいっぱいの肌触りがぬるっとした──あまぞんってところの川水なんだってことを。
 あまぞんの川水こそが、俺が本来住むべき場所なのだ。
 ……と力説してみたものの、実際そこがどんなところなのか、俺自身は知らない。
 ここに買われて来る前にいた店で先輩から聞いた話だ。先輩も、その前にいた先輩に聞いたっていうんだから、情報の大本はずっとずっと遠いのかもしれない。
 だが、情報の元が誰なのかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
 ピラニアという種である俺の中に流れる血が、この清く済んで浄化され続けるこの水は、棲むにはいまいちだと叫んでる理由がわかった、それだけでいい。
 そう、所詮俺は人間が愛玩するために買われてきた一匹のピラニアに過ぎない。
 環境による文句など言ったところで届かず理解もされず、毎日を生きること自体この家に住む人間の手に委ねられているわけだ。
 幾ら叫んだからって、見たことも棲んだこともない心の故郷であるあまぞんとやらに帰れるわけでもなく、たった一匹狭い水槽の中で魚生を終える孤独が癒されるわけでもないのだから。
 ただ、たまには愚痴を言いたくなるときもある。誰に聞いてもらえるわけじゃなくてもな。


 そうやって飼われている俺には、毎日一回ごはんの時間がやってくる。
 ここの家の人間は俺の好きなものを知っているようで、生きたままの魚が俺のごはんとして放り込まれるのだ。
 弱ってたり活きが良かったり、大きかったり小さかったり、美味かったり不味かったり。魚の種類も時々、特に季節によって変わる。
 勿論それらには文句の一言もつけようがない。
 今日もぽちゃりとごはんという名の魚が水音を立てて落ちてきた。
 そのごはんは、いつも放り込まれるごはんと違った──店にいたときに見たことがある。確か、金魚って奴だ。
 目にも鮮やかな紅っぽい金色をしたその金魚は、俺の周囲をびくびくおどおどしながら泳ぐ。
 これから俺に食われることは判っているようで、いかにも魚生を諦めましたって表情だ。
 そんな金魚を見ていて俺は、つい言ってしまった。
 別にお前を食う気はない──って。
 深い理由は、あるようでない。
 ただ、なんていうか。このまま一匹で生きて、いつか死ぬんだろうかって思ったら、目の前にいるこいつを口に放り込む気分じゃなくなったというか。
 それだけなんだから気にしないで生きてりゃ良いじゃないか。
 明日にはまた気が変わってお前を食ってるかもしれないんだから、少しでも長く生きてることにでも感謝しておけよ、と。
 不可解ながらもこわごわ頷くその金魚を見て、俺の中にちょいと、いやかなり変な感覚がわき上がっていた。
 今まで平気で何匹もごはんを食ってきて、そいつらと会話するなんて考えもしてなかった。だってそんなことをする必要がどこにある?
 それがどうだ。
 ほんの気まぐれで食わなかった「ごはん」に声をかけちまったことで、こいつはもう俺の中で「ごはん」じゃなくなっちまった。 
 まだ食う気にはなれないが、いざとなったときの非常食とでも考えればいい──俺は無理やり自分をそう納得させた。

 
 翌日、俺の住む水槽に新しいごはんはこなかった。
 どうやらこの家の人間は、俺がこいつを食わなかった理由を単に腹が減ってなかったからだと思ったらしい。
 腹が減ってるかどうかと聞かれれば、そりゃあ丸一日何も食ってないのだから減ってるに決まってる。
 食わなきゃ死ぬのは世界の法則だ。栄養がなければ体を維持できない。
 んなこた判ってる。
 だがどうしても俺はこのちっぽけな金魚を食う気になれなかった。
 ごはんとして放り込まれた昨日は終始びくびくしながら水槽の端っこにいたくせに、今日になって大分慣れたのか、俺の様子を伺うようにちょこまか泳ぐ。
 それだけなら多少目障りではあるものの、放っておいてもそこまで害はないんだが、この金魚は俺が最も嫌う性格をしていたらしい。
 つまり、おせっかいだ。
 こわごわしながらも、まだ僕を食べないんですかお腹は空いてないんですか、なんてことを、俺が答えるまで何度も何度も聞いてくる。
 何でお前が俺の心配をしてるんだ。お前は食われる立場で、俺は食う立場なんだ。
 間抜けな金魚にイライラした俺は不機嫌を隠さないで答えてやった。
 まだお前を食う気になれないだけだってな。
 理由も聞かれたけど、そんなん知るかと言ってやった。
 おどおどしながらも言いたいことだけは言う金魚にむしゃくしゃしたので、腹が減ってるかどうかまでは答えてやらなかった。
 余計なことをしゃべったり動いたりすると、無駄に腹が減る。
 だから俺は、美味しそうな匂いをぷんぷんさせながら色々話しかけてくる金魚のことをひたすら無視してじっとしていた。
 
 
 次の日も、その次の日も、俺の住む水槽に新しいごはんはこなかった。
 この家の人間は、どうあっても俺にこいつを食えといっているらしい。
 絶食三日目ともなると、流石に動きも鈍くなる。考えも鈍くなる。こんな状態から抜け出す為だったら、さっさとこいつを食っちまえばいい。
 ばりばりに骨から尻尾まで噛み砕いて、救難信号を発している俺の胃袋を満たせばいい。
 なのにだ。
 頭ではわかっちゃいるのに、俺の牙はこいつを食みたくないといっていた。
 今日も金魚は俺の様子を伺うように、周りをうろちょろ泳いでいた。お前は臭うから俺の鼻先で泳ぐなとだけ言うと、金魚は俺の隣でおとなしくなった。
 これで目の前で空腹を煽る匂いをちらつかされずに済む、とホッとしたのも束の間。
 そのうち、ぽつりぽつりと金魚が独り言のように身の上話を始めた。  
 こいつは屋台ってとこの出身らしい。
 俺みたいに店で買ってこられたんじゃなく、人間たちの余興で連れてこられたんだと。
 金魚いわく、そこで連れてこられたのはラッキーだと思ったとさ。なんでかって、そこで掬って貰わなかったら餌になる運命が待ってるって判ってたからってな。
 だが連れてこられたここでも、結局は餌になったわけだ。弱肉強食が世の常とはいえ酷い魚生だなと心の中で思っていたら、金魚は何でか笑いやがった。
「僕はここに連れてこられて幸せです。だってピラニアさんは僕に時間をくれました」
 ぽかんと開いた口がふさがらない。俺には金魚の言葉の意味が理解できなかった。
 何を馬鹿なこと言ってるんだこいつは。俺は、俺は気紛れでお前を食わなかっただけだ。
 お前のために食わなかったわけじゃない。俺の都合なんだ。
 大体、ちょっとばかり時間があったからって何が変わる。結局お前は俺に食われる運命にあるんだぞと威嚇してやったのに、金魚はやっぱり笑いやがった。
「時間があったから、僕はピラニアさんを好きになれたんです。誰かのごはんになるなら、好きな相手のが嬉しいです。だから、僕は幸せです」
 好き──それは何だ? どういう意味なんだ? 
 金魚の言葉に俺は混乱した。
「好きな人が苦しむのもいやです。だから……さようなら、ピラニアさん。幸せをくれて、ありがとう」
 俺が金魚の言葉の意味を理解する間もなく金魚は、開いたまま塞がっていなかった俺の口めがけて勢いよく飛び込んだ。
 ──いい匂いが俺の口中に広がった。


 今日もごはんの時間がやってくる。
 水槽にが放り込まれてぽちゃんと落ちてきたそれは、小さく切り取られた肉だ。
 元は俺と同じか、それよりでっかかったんだろうと思われる肉を食みながら、俺は隣で泳ぐ相棒に目を向けた。
 同時に放り込まれた金魚用のごはんを小さな口で一生懸命ついばんでいる。
 まったく、いつまでたってもごはんを食うのがうまくならない奴だ。
 あの日、俺はこいつを食えなかった。口に飛び込んできた、いい匂いのするこいつを食みたくて食みたくて仕方なくて、胃袋はこいつが欲しいって叫んでいたけど、それでも食いたくない気分が勝っちまった。
 あれ以来、この家の人間はごはんを変えた。俺用にはすでに死んで切り取られた肉と、金魚用にはちっこい粒粒みたいなごはんを放り込むようになったのだ。
「お腹いっぱいに足りなかったら、いつでも僕を食べていいですからね」
 ふざけたことを言ってくれる。俺にもうこいつを食うなんて出きるわけないってのに。それをこいつもわかってるくせに。
 この狭い水槽が、もっと狭くなったことを俺が喜んでるのを知ってるくせに。
 いけしゃあしゃあと笑顔で言う相棒に、俺は無言で尾びれアタックをかましてやった。

2010年08月13日

ぷちとまと。


 じめじめ匂う、いやんな感じ。
 ここにくるのは、僕の頭に小さくついてる、緑のヘタだけだったはずなのに、どうして僕はここにいるの?
 はぁ、って小さくため息ついてみたけど、状況が変わるわけじゃない。
 スーパーで売られているとき、同じパックに入れられた十個弱の兄弟たちに、僕は散々自慢した。この中で僕が一番真っ赤で熟してて、きっと一番美味しく食べてもらえるよって。
 でもそんな僕は、独り寂しく三角コーナーの中でぽつんと座ってる。
 どうしてこんなところにいるかって、僕の入ったパックを買った人が、不注意に僕だけを床に落っことしたんだ。
 タイルの床に落っこちたときはそりゃあ痛かったさ。僕のつやつやすべすべ自慢の肌が傷ついたのもショックだったね。
 痛かったけど、それくらいで僕の美味しさが損なわれたわけじゃない。
 なのに、あの落っことした人ってばさ。洗えばまだ食べられるのに、あの中で僕が一番美味しいのに。
 落っことしたものなんてもう食べたくないって、洗いもしないで僕を三角コーナーに放り込んだんだ。
 まな板の上で水洗いされた兄弟たちが僕を見下ろしてる。
 やめてよ。同情なんていらないよ。君達はさっさとお皿に盛ってもらえばいいだろ。
 ……本音を言えば食べてもらえる君達がうらやましいけど、でも僕は知ってるよ。
 本当だったら僕が一番美味しく食べてもらえるはずだったんだ。
 だからいいよ、僕を落っことしたあの人も、まだ甘酸っぱい兄弟を食べて後悔すればいいんだ。
 あの三角コーナーに入れちゃったぷちとまとは美味しかったのかしら、ってね。
 
 
 お皿に盛られる兄弟達を遠めで眺めていた僕の横に、不意に緑の何かが飛んできた。
 兄弟のヘタかな、なんて一瞬思ったけどそうじゃない。
 ちらりと横に視線を流したら、そこにいたのはきゅうりさんだった。
 ただのきゅうりさんじゃない。輪切りにされたきゅうりさんの、一部だった。
「……よぉ」
 喋った、って僕が驚くのは無理もないよね。だって輪切りにされたきゅうりさんの一部がきゅうりさんとして喋るなんて、思いもしないもの。
 話を聞くと、きゅうりの輪切りさんはここの人がとんとんきゅうりさんを切っているとき、やっぱり床に落っことしちゃったらしい。
 洗えばまだまだ食べてもらえるのに、種の詰まった一番美味しい部分なのに、僕とおんなじ運命を辿ったってわけだ。
 でもいいじゃないって僕は言った。きゅうりさんは、ほかの部分は食べてもらえるんだからって。
 そうしたらきゅうりの輪切りさんは、ニヒルにこう言ったんだ。
「お前さん、兄弟たちが食べてもらえたら満足かい?」
 何も返せなかった。
 食べてもらえる兄弟たちが羨ましいよ。なのに僕は食べてもらえないで、ここで朽ちていくだけなんだ。そんなのに満足するわけないじゃないか。
「そんなもんさね。他の部分が食べてもらえたって、ここにわしの意識が残っちまってるんだ。そいつあ不幸なことだろう?」
 と、ちっとも不幸そうじゃない顔で笑うんだ。
 僕にはきゅうりの輪切りさんがわからない。
 自分で不幸だって言うなら、どうして悲しそうじゃないんだろう。
 どうして、あんな優しそうに笑うんだろう。
 

 さんさん夏の陽射しが僕ときゅうりの輪切りさんを苦しめる。
 つやつやすべすべだった僕の体が見る見るうちにしぼんでく。しわしわのおじいちゃんみたいに。
 食べてもらえない僕には、もう関係ないけどね。
「そんなこと思っとらんだろう」
 ぐさっと胸に突き刺さったよ、きゅうりの輪切りさん。
 もしもしわしわになるなら、あったかい地面に落ちるときだと思ってたのに、こんな湿ったプラスチックの三角コーナーで、何にも生み出せないまましわしわになるなんて──そう思ったって、どうしようもないじゃないか。
 床に落っことしただけで嫌がったあの人が、三角コーナーから僕を拾い上げてくれる可能性なんて、世界が終わったってありえないよ。
 僕らを助けてくれる神様なんていないんだって、僕は叫んでやった。
 人の痛いところをつついておいて、涼しそうな顔をしてるきゅうりの輪切りさん。
 ちょっぴりイラっとした僕は、じゃあきゅうりの輪切りさんはどうなのさ、って聞いてみた。
 だって僕ばっかりぐさぐさやられるのは、なんだか不公平だ。
「そりゃお前、わしだって不満でいっぱいさ。だけどなあ、希望はいつでも残ってるもんだ。こんなしみったれた三角コーナーの中にだって、物好きなちっちぇえ希望がやってくるかもしれねえんだ。なのに不景気な顔してりゃ、希望は尻尾巻いて逃げ出しちまうぜ?」
 そんなわけあるかって、思った。こんなとこに希望なんていないし、来るわけがないよ。
 どうせ僕らは傷んで腐っていやんな匂いをするようになって、あのビニールに詰め込まれて、真っ赤な炎に焼かれて終わるんだ。
 何にも生めずに、何もなれずに終わるんだ。
 僕の中に眠る種を生むことも、何かの力になることもできずに終わるんだ。
 そう言い返してやったのに、きゅうりの輪切りさんはやっぱり優しい顔で笑う。
 わからない。
 僕にはきゅうりの輪切りさんがわからなかった。
 ──そのときだった。
 僕たちにさんさんふりそそぐ陽射しが翳ったんだ。
 雲かな? って思ったけど、僕らを黒い影が覆ったからそれは違う。
「……きたか。まってたぜ」
 優しい声で、きゅうりの輪切りさんが言う。
 なんだろうと思ってキッチンの開いた窓を見ると、そこにいたのは星も月もない真夜中みたいに真っ黒な翼をしてる──うん、知ってる。お母さんに生ってたときに見たことがある、それはカラスさんだった。
 大人のカラスさんじゃなくて、多分まだ子供。だって大人のカラスさんを見たことあるけど、それと比べてそんなに大きくないから。
 カラスさんはよたよたっとしながら三角コーナーに近づいてくる。
 家の人たちはまだ、誰も気づいていない。だから、子供のカラスさんを追い払ったりしない。
 きゅうりの輪切りさんが言っていた「希望」が、僕にもようやくわかった。
 黒く光るくちばしが、ゆっくり近づいてくる。
「さ、いこうぜ兄弟。これでわしらも「何か」になれる」 
 こんなに早く希望が訪れるなんて奇跡だけどな、と。
 くちばしに挟まれたきゅうりの輪切りさんは、僕に最期の笑みを浮かべたんだ。
 三角コーナーに放られてから、一回も笑えなかった僕だったけど。
 子供のカラスさんがきゅうりの輪切りさんをぱくっと飲んで、それからもう一度三角コーナーに近づいて、よたよたと僕の体を挟み上げたとき、ようやく笑えた気がしたよ。
 ありがとう、子供のカラスさん、きゅうりの輪切りさん。
 ──願わくば次の生も、きちんと「何か」になれますように。
 かわいいくちばしに挟まれながら、僕は最期の祈りを、いるはずないって叫んだ神様に願ったんだ。

2010年07月26日

たいやき屋。


 私は世間様でいうところの、いわゆる女子高生ってやつだ。
 ただし、今時のっていう修飾語が使えるかは微妙。お洒落や流行にあんまり詳しくないし、興味があるのは本を読むことくらい。たまに買っている雑誌はあるけれど、同じものをクラスの子が読んでいる可能性は皆無だと思う。その雑誌がどれだけ珍しいかっていうと、取り寄せを申し込んだとき書店員さんの目が何度も瞬きしていたくらい。
 ひょろりと痩せた体に短く切りそろえた髪の毛。これで普段はパンツルックだから、街を歩いていて男子と間違われることもあった。
 でも別に、たいして気にしてない。彼氏が欲しいわけじゃないし、自分を可愛く着飾るのに興味はない。今はお金を貯めるのが優先だから、服や小物にお金をかける気になれなかった。
 そう、私はお金が欲しかった。勉強をしてお金を貯めて、海外に行きたかった。
 ただ海外っていっても、旅行に行きたいんじゃない。留学して、仕事を探して、出来ることなら永住権を取得したかった。
 でもどこの国を選ぼうと、良い成績と先立つものが必要なのには変わらない。
 進学校で必要最低限な順位をキープしている私にとって成績や内申書は全く問題ない。
 兄弟姉妹がなく、親との交流が断絶状態である私には、引き止める人間もいない。
 残るハードルはお金だった。
 インターネットで留学の諸費用や情報を集めた私は、高校卒業と同時にその計画を実行に移すべく、たいやき屋でアルバイトを始めることにした。


 アルバイトを始めた私の、毎日たいやきを焼く日々が始まった。新人に最初から調理をさせるなんて無謀な店だと思ったけど、慣れてみるとこれが案外楽しい。
 店長の教え方は大雑把だったけど、生来手先の器用さに自信がある私は難なく仕事を覚えて、二週目には既に殆どの作業を楽々こなせるようになっていた。
 後から聞いた話では、今までの人が急に辞めてしまったので、多少の無理は承知の上で調理を覚えて欲しかったらしい。
 何故ならこの店は、毎日毎日長蛇の列が出来る人気店だった。
 なんと雑誌にも紹介されたことがあるほどの店で、それをクラスメートから聞いた私はかなりびっくりしたものだ。
 もっとも、クラスメートからはその事実を知らないことに驚かれた。普段下校途中に寄り道をしない私は知らなかったけれど、クラスメート曰くここは買い食いの定番スポットなのだそうな。
 有名店だからこそなかなかアルバイトの空きも出ない、そこで働けるなんてすごい、私も誰々も面接で落ちたんだよ──そう言って羨ましがるクラスメートに、高校生でも雇ってくれる店であることと時給が美味しいというだけの理由で決めたとはとても言えず「たまたま運が良かったんだ」とだけ言って誤魔化した。
 わざわざ私の働き振りを見に来るクラスメートに愛想笑いをしながらも、私は毎日忙しくたいやきを焼いた。
 バイトの初日に私は、とあることに気づいた。メディアで特集されるくらい人気のお店なのに、一種類だけ売れ残るたいやきがある。その日だけなのかと思いきや、その一種類だけが毎日毎日売れ残る。
 それはお好み焼き味のたいやきだった。
 閉店間際、売れ残ったお好み焼き味には特価の札をつけて売りさばく。それでも殆ど毎日売れ残る。売れ残った日は必ず、店長がお好み焼き味のたいやきを包んでお土産にしてくれた。
 買取じゃなくて良いのかと聞いたけど、無駄にするよりは良いから無料だと言って持たせてくれた。
 正直なところ、私は甘いものがあまり好きじゃない。だからお好み焼き味のたいやきを貰うのは、むしろ歓迎だった。これがあんこやクリームだったら幾ら人気があるといっても遠慮したと思う。
 家に帰って、お土産に貰ったお好み焼き味のたいやきを一口食べる。
 冷めて湿った外皮の中に詰まった、絶妙のハーモニー。キャベツ、芝海老、紅生姜。私が焼いた、お好み焼き味のたいやき。
 美味しかった。すっかり冷めてしまっていたけれど、売れ残るのが不思議なくらい、美味しかった。
 けれど何故だか食べていて、やるせなくなってきた。
 売れ残るお好み焼き味のたいやき。美味しいのに人気のない、お好み焼き味のたいやき。
 このたいやきは私だ。
 甘くなくて、冷めて湿った体で、それでもきっとたいやきとして買って欲しいのに、興味本位以外で買ってもらえないたいやき。
 女の子らしくさがなくて、クラスメートとは上っ面の付き合いしかしなくて、私だって周囲に必要とされたいのに、誰にも必要だと言ってもらえない私。
 このたいやきは、私だった。
 

 自分とお好み焼き味のたいやきを重ねてしまってから私は、お好み焼き味を焼くことが苦痛になっていった。
 たいやきは基本、種類それぞれの売れ行きを見ながらローテーション組んだ順に焼いていく。そのローテーションにお好み焼き味が入ることはまれだったが、それでも一日に二回は焼く機会がある。
 それが辛くて仕方ない。
 売れない子を焼く作業は、必要とされない自分を量産しているような気がしてやりきれなかった。
 興味本位でたまに買って行くお客の為だけに焼く、お好み焼き味のたいやき。それは気が向いたときにだけクラスメートとの交流を持つ私のようだった。
 本当にお好み焼き味が好きで買っていくお客がいるのか。
 お客を観察するようになった私は、ある固定客の存在に気がついた。
 曲がった腰に小さな体で、毎日ほぼ決まった時間にたいやきを買いに来るおばあさんがいる。
 老若男女に人気があるこの店では、年配の人が買いに来るのは決して珍しいことじゃない。 
 ただそのおばあさんは、必ずお好み焼き味のたいやきを選んで一匹だけ買い、すぐそこのベンチに腰掛ける。そして美味しそうに顔中にしわを作りながら笑顔で食べる。
 自前の水筒からお茶を出して飲みながら、ゆっくりたいやきを食べるおばあさんは、心からの笑顔を浮かべていた。
 幸せそうだった。おばあさんも、お好み焼き味のたいやきも。
 私は毎日毎日、その光景を見るのが楽しみになっていた。いつしか私は、おばあさんがお好み焼き味のたいやきを食べているとき、自分の頭を撫でて貰っている、そんな風に感じるようになった。
 誰かに頭を撫でてもらった最後の記憶は、小学校に上がる前。ずっと出来なかった逆上がりを成功したと報告して、両親から撫でてもらったときだ。
 誰にも褒めてもらえない私を、あのおばあさんが褒めてくれているような気がした。
 何故おばあさんは、こしあんでもつぶあんでもカスタードクリームでもなく、お好み焼き味を選んで食べているのか。機会があれば聞いてみたかったけれど、次から次へとやってくるお客の波のおかげでそんな時間は全くなかった。
 
 
 けれど暫くして、私が質問を投げる前に、おばあさんは店に来なくなった。
 思えば毎日毎日来店していること自体が不思議だったので、そのうちまたひょっこり来てくれるだろうと思いながら、私は胸の奥にぽっかりと空洞が出来てしまったことを認めざるを得なかった。
 飽きたのかもしれないし、元々年配の方なんだからたいやきを食べるのが体に良くなくなったとか、そんな理由があるのかもしれないし、近所にもっと美味しいたいやき屋が出来たのかもしれない。
 ただ、寂しかった。
 しわしわの手でお好み焼き味のたいやきを持って、これが大好きで美味しいのだと全身で言っている姿を見られないのが、たまらなく寂しかった。
 あの姿を見ているだけで、毎日毎日お好み焼き味を持って帰っても、宣伝用のポップにお好み焼き味をお勧めできなくても、おばあさんを見ていれば幸せになれたのに。
 幾ら待ってもおばあさんは店にやってこなかった。
 我ながら身勝手だな、と思いつつもおばあさんを責めずにいられなかった。
 おばあさんが私から幸せな気持ちを奪ったように感じ始め、次第に頭を撫でてくれなくなった両親とおばあさんが重なり、いっそもう来なくても良いと思い始めていた。
 期待して、裏切られるのなんか慣れてる。ならもうあのおばあさんを心待ちにしたりしない。
 どうせ誰も好きじゃないだろうお好み焼き味なんて、毎日売れ残れば良いんだ。
 おばあさんがくれたはずの温かい何かが私の中でひび割れていく、そんな気がした。 


 そうしておばあさんがこなくなって暫く経ったある日。私が会計を担当していると、一人のおじいさんが来店した。
 機械的にいらっしゃいませと告げた私に、おじいさんは何故かだんまりを決め込む。
 待っていても何も言わないおじいさんに多少イラつくけれど、客商売客商売と心を鎮めてから、私はおじいさんに先を促した。
「ご注文は?」
「お好み焼き味のを、全部ください」
 おじいさんの発した言葉に、私は耳を疑った。
 あのおばあさんが来店しなくなって以来、更に売り上げの落ちていたお好み焼き味のたいやきを、このおじいさんは全部買うという。
「全部、ですか?」
「はい。今あるだけ全部をください」
「……少々お待ちください」
 私は泣きそうになるのを必死でこらえながら、お好み焼き味のたいやきを袋に詰めた。
 全部欲しいということは、少なくとも興味本位で食べてみたいんじゃない。おじいさんは、お好み焼き味を選んだんだ。
 確かに買ってくれるのはあのおばあさんじゃないけど、間違いなくお前はもう一度お前として必要とされたんだよと、心から叫びたかった。
 もう二度とこんなことはないかもしれない。夕方のこの時間、店長の指示がなければもう今日はお好み焼き味のたいやきを焼かないだろう。だから売れ残らないのは、今日だけかもしれない。それが、たまらなく嬉しい。
 たいやきの詰まった袋をおじいさんに手渡す。穏やかに微笑むおじいさんの笑顔は、どうしてだかあのおばあさんを思い出させた。
 とても勝手な思い込みだけれど、私はそれだけでおじいさんにも頭を撫でてもらった気がした。
「ありがとうございました」
 初めてお好み焼き味のたいやきの場所に「完売」の札を置けるのが嬉しくて、私は大きな袋を両手に抱えたおじいさんの背中に、深々と頭を下げた。


 お好み焼き味のたいやきが全部売れてしまったのを見た店長が、追加で焼くよう指示する。
 今から焼いても売れ残るのが目に見えている私は内心その指示にがっかりしていたが、所詮バイトでしかない私は店長からの指示に逆らえるわけがない。
 渋々一列分だけ、お好み焼き味のたいやきを焼く。
 焼きあがって「完売」の札を名残惜しげに外し、再びそこにお好み焼き味のたいやきを並べていた私の肩を、店長が叩いた。
 振り返ると、店長は並んでいるお好み焼き味のたいやきを一匹手に取ると私に手渡した。
「店長?」
「休憩だろ。これ、折角焼きたてだし持ってっていいよ」
「あ、ありがとうございます」
 出来上がったばかりのお好み焼き味のたいやきを手に、私は休憩室へ向かう。
 休憩室には珍しく誰もいない。
 サービスで飲める温かいほうじ茶を淹れた私は、窓際の席に腰掛けた。
 そういえば焼きたてのお好み焼き味を食べるのは初めてだ。家に持ち帰っても、温めなおすのが面倒で冷えたまま食べていたから。
 鼻先に漂う香ばしさいっぱいのたいやきを頭からかぶりついた。
「……え」
 ──こんなに美味しかったっけ。
 キャベツと出汁と生地の異なる種類の甘さが混ざって、ぴりっと効いた紅生姜と忘れちゃいけない干し海老のアクセントが飽きさせなくて、ぱりっと香ばしい外皮がそれを優しく包んでる。
 味のハーモニーは家で食べるときと同じなのに、何倍も美味しかった。
 口の中でたいやきを咀嚼しながら、私は唐突に理解してしまった。
 こんなに美味しいたいやきは、私と同じじゃない。少なくとも、今の私じゃない。
 お好み焼き味のたいやきは、沢山じゃなかったとしても、その数が少なかったとしても、確実に必要とされている。例え売れ残っても、毎日毎日焼いてもらえる。少しでも買ってくれるお客の為に、売り場に並ぶ。
 だから店長も、売れ残るってわかっていても毎日必ずお好み焼き味のたいやきを焼くんだ。
 あのおばあさんの幸せそうな笑顔もしわしわの優しい手も、沢山買ってくれたおじいさんの笑顔も全部全部、個性的で美味しいお好み焼き味のたいやきのもので、私に向けられたものじゃない。
 クラスでは自分から溶け込もうとせず、親にはどうせわかってもらえないからと話もせず。海外に行きたいのだって、誰も自分を知らないところで一からリセットしてみたいだけの私とは違う。
 冷めていても求められて、冷めてなければもっと美味しいお好み焼き味のたいやきと、最初からすべてを諦めていて、新天地での周囲に期待しているだけの私とは違う。
 違うんだ。
 私は、お好み焼き味のたいやきを見下して、仲間が欲しかっただけに過ぎないんだ。
「……」
 現実を認めてしまった私の涙腺が限界に達し、頬を涙が伝う。
 なれるだろうか。まだ、間に合うだろうか。
 私にも、お好み焼き味のたいやきのようになれるだろうか。
 傷をなめ合うように姿を重ねるのではなく、本当の意味でお好み焼き味のたいやきになりたい。万人好みでなくても、誰かに美味しく食してもらえるお好み焼き味のたいやきのようになりたい。
 なれなくても、なれるように努力してみたい。
「……よし」
 家に帰ったら、数ヶ月ぶりに親と話をしてみよう。私が何を考えていたのか、将来どうしたいのかを真剣に話してみよう。
 今日もきっと売れ残るだろう、お好み焼き味のたいやきを温めなおしてから出して、お茶を淹れて。
 誰もいない休憩室で一人、私は涙を流しながらお好み焼き味のたいやきを完食した。

2010年07月24日

たいやき。


 我輩はたいやきである。
 一口にたいやきといっても、いくらか種類があるのをご存知だろうか。
 しっとり舌触りの良いとろけるようなこしあん。食感も楽しいほくほく王道のつぶあん。一昔前のニューフェイスも今では不動の地位を築いたカスタードクリーム。
 よく知られているたいやきといえば、そのあたりだろう。
 だが我輩はそのどれでもない。
 我輩はお好み焼き味のたいやきなのである。お好み焼き味なのだが、たいやきなのである。
 そこの君、お好み焼き味と一笑に付すにはまだ早い。味わったことのない方は食わず嫌いなどせず遠巻きに見ていないで、是非我輩を賞味して貰いたい。
 お好み焼き味は甘くない。甘いたいやきを求めて我輩を口にすると、それはそれは期待はずれに顔をしかめるだろう。けれどそこで我輩の評価を決めてはいけない。頼むから決めないで頂きたいのだ。
 外の皮がぱりっと香ばしく、場合によってはそこに混じった紅生姜がアクセントになってそれだけでも日本茶がすすむ。中身はあっさり出汁の風味がきいて、キャベツの千切りと干した芝海老が絶妙なコントラストを奏でている。一個百十円で口内にえもいわれぬハーモニーをもたらすことは、こしあんにもつぶあんにも、ましてやカスタードクリームにも出来ない。
 お好み焼き味である我輩しか成し得ないのだ。


 にもかかわらず、我輩は毎日最後まで売れ残る。
 売れ残ると従業員たちが渋々持ち帰って口にする。それか閉店前に値引き特価の札がついてからようやく売れる。
 甘くはないがとても美味しいのだと自負できるのに、食べて貰えれば判るのにと、幾らここで叫んでも実際食べて貰えないとお客にそれはわからない。食べてもらうには買ってもらうしかないが、人気がなければそもそも買ってもらえない。
 そう。認めたくはないが、我輩は人気がないのだ。
 自らを美味しいたいやきと自負している我輩にとって、これは屈辱だった。
 今日も隣の焼きたてのつぶあんが誇らしげに売られていく。その向こうのカスタードクリームは謙遜しながらもやはり売られていく。
 店頭にはこんなにも長い列が出来ているのに、お好み焼き味を、という声は掛からない。ポップと呼ばれる宣伝カードにも、我輩のことは小さく目立たないようにしか書かれていない。
 一番人気のつぶあんは、あんなにも大プッシュなのに。毎日売れ残りを食べて、我輩の味を知っている店員すら、我輩を推してはくれなんだか。
 今日も我輩の体がしっとりと濡れていく。我輩の一番美味しい、ぱりぱり香ばしい外皮が、誰にも味わってもらうことなく湿っていく。
 焼きたての香ばしさを味わって欲しい。時間が経ってしまっては美味しさが半分以下だ。
 そう願っても、我輩が売れるのはしっとりした体のときばかり。
 だから皆、一度は我輩を買ってくれても次からはまたこしあんかつぶあんかカスタードクリームを選ぶのだ。
 判っている。我輩は色物なのだ。そう呼ばれているのも判っている。
 それでも、たいやきとしての誇りは失わない。
 なぜなら我輩はたいやきなのだ。……売れ残っても、色物でも、たいやきなのだ。
 我輩は、たいやきなのだ。
 
 
 毎日叫ぶのは、疲れるのである。主張し続けても、手応えがなければへこたれるものである。
 幾ら精神力の強い我輩でも、くたびれるのだ。
 果たして我輩はたいやきである意味があるのだろうかと、半ば諦めの境地になりかけていたある日、ふと気づいた。
 いつからだったのかは不覚にも不明であるのだが、毎日毎日、我輩を買ってくれる御老女がいる。
 その数はいつも一匹なのだが、こしあんもつぶあんも、ましてやカスタードクリームも選ぶことなく、必ず我輩を指名してくれる。お好み焼き味の、冷めてぱりぱりではなくなってしまっている我輩をだ。
 ご老体の割りになかなかアクティブな御老女は、家ではなくここで我輩を食べる。店の隣にある、イートインとはとても呼べない小さなベンチに腰掛けて、御老女は顔中にしわを作って、満面の笑みで我輩を食べてくれる。
 喉に詰まったりしないのか心配で御老女を眺める。毎日毎日眺める。ある日咳き込んでいたが、手にした巾着から小さな水筒を出してお茶を飲んでいた。
 日本茶だ。あの御老女はわかっている。我輩の一番美味しい食べ方を判ってくれている。
 こしあんでもつぶあんでもカスタードクリームでもない我輩を選んでくれる御老女がいるだけで、毎日売れ残っても悲しくなくなった。
 我輩は叫ばなくなった。我輩がたいやきなのだと、叫ばなくなった。
 叫ばなくとも、あの御老女が判ってくれる。
 御老女が美味しそうに我輩を食べてくれる。
 たったそれだけのことなのに、この上なく幸せなのだ。
 
 
 だがある日を境に、御老女はぱったりと店に来なくなった。それどころか売り場付近で姿を見かけることすらなくなった。
 毎日毎日見ることの出来た、あの御老女の笑顔がそこにない。ベンチが空席のまま、日々が過ぎていく。
 飽きたのだろうか。御老女にとって、所詮我輩はたいやきではないのだろうか。それともあれだけ毎日食べていて、飽きてしまったのだろうか。
 それならば仕方ない。幾ら好きでも毎日食べ続けていればいつか飽きてしまう事もあるだろう。
 寂しいが。この上なく寂しいが、暫くすればまた来てくれるだろうか。来て、我輩だけを選んで買ってくれるだろうか。
 淡い期待を頼りに我輩は待った。御老女を待ち続けた。
 一週間たっても二週間たっても御老女は姿を現さなかった。
 その間も我輩は売れ残り続けた。完売の札が掛かるこしあんやつぶあんやカスタードクリームの横で、いつもと変わることなく売れ残り続けた。
 売れ残っても気にしなくなっていたはずの我輩の心が、御老女が買ってくれるだけで満足していた我輩の心が、かりかりに香ばしく焼けたしっぽと共に冷えていく。湿ってしまった体以上に、心が冷えていく。
 今の我輩は、我輩自身も美味しくないだろうと思えた。
 何故なら今の我輩の中には誇りが、何より幸せが詰まっていないのだ。悲しみのハーモニーを食べても、きっと満足するお客はいない。
 今の我輩に幸せを詰められる御老女は、お客の一人でしかない。何故来てくれないのかというのは、我輩の勝手な言い分でしかない。
 判っていても、我輩は御老女を待ち続けた。
 せめて他の、こしあんでもつぶあんでもカスタードでも良いから買いにきて欲しい。
 いやいやダメだ、来てくれるならやっぱり我輩を買って欲しい。
 とにかく、御老女が来てくれるのだけを願いながら、我輩は日々を過ごした。
 
 
 ある日、店に来た一人の老紳士が驚くべき事を店員に告げた。
 なんと我輩を全部買っていくというのだ。しかも、こしあんもつぶあんもカスタードクリームもいらない、お好み焼き味の我輩だけを、あるだけ全部。
 今までにこんなお客はいなかった。
 勿論買ってもらえるのは嬉しい。……だが嬉しいのに嬉しくないのだ。
 何故これが御老女ではないのだろうと、折角買ってくれるという老紳士に大変失礼な事を考えてしまうのだ。
 それに全部買われてしまっては、もし今日御老女が店に来たら、御老女に買ってもらえなくなってしまう。我輩が見たいのは、あの御老女のしわいっぱいの笑顔なのだ。
 我輩の葛藤など知るはずもなく、店員は我輩を袋にぎゅうぎゅう詰め込んでいく。
 しっとり濡れて冷めた沢山の我輩が入った袋を、老紳士は大切そうに抱えた。
 優しげな風貌の老紳士は、我輩に御老女をより強く思い出させた。御老女に似ていると思うということは、我輩は老紳士を嫌いではないということに他ならない。
 これも運命か。今日もし御老女が店に来て我輩とすれ違ってしまったとしても、この老紳士に食べてもらえるならば、それはそれで我輩の幸せなのだろう。
 少しでも中に幸せを詰めよう。御老女ではないが、我輩だけを選んで沢山買ってくれたこの老紳士が、我輩を美味しく食べてくれるように。
  
  
 どれくらい時間が経ったのか、袋いっぱいの我輩を抱えた老紳士が家についたらしい。
 我輩はやっと狭いぎゅうぎゅうの袋から、白い大きな皿に乗せてもらえた。出来るならトースター等でもう一度かりかりにしてもらえれば、焼き立てとはいかなくとも美味しく食べてもらえるのに。
 今更のようなの不満はあったが、山盛りの我輩を食べてもらえるならと、その瞬間を楽しみにしていた。
 だがテーブルではなく、随分と高いところに置かれた我輩は、いつまでも食べてもらえない。
 老紳士は山と積まれた我輩を見て涙を流した。そうして一匹だけ我輩を手に取り、泣きながら我輩を食す。
「……最期に、食べさせてやれんで、すまんなあ」
 老紳士が我輩を食しながら、ぽつりと漏らす。
 優れた我輩はすべてを瞬時に理解した。
 だが我輩の思考はそこで止まってしまった。
 もう、あの幸せな時間はかえってこない。御老女がベンチに座って、御老女が美味しく我輩を食べてくれることはないのだ。
 それだけ判ればもう、十分だった。
 ずっとずっと見たかった、黒ぶちに囲まれた御老女の温かい笑顔の前で、我輩はここで朽ちて逝こうと意識を閉じた。