2009年06月13日

戒 ──内面(1)


 水浸しの部屋に、びしょ濡れの髪と服。
 そんな幻覚。
 水は全部、自分の流した涙。流れて流れて、枯れ果ててしまえばいいのに。体中の水分が枯渇してしまえば、涙もいい加減止まってくれるのに。
 どうせ幻覚ならもっと冷たい水ならいいのに。息も出来ないほど、喉の奥まで流れ込んで息の根を止めてくれればいいのに。
 そんなことをしても意味が無いことくらいわかってる。
 胸を抉れた様な、頭と躯が切り離されたような、痛みを感じていると言う事実だけを脳で理解して感覚がついてこない。

 痛い。体が動かない。息が出来ない。どうして生きているのかわからない。光が見えない。何かを失ったということが判って、でもその何かがわからなくて、もしかしたら全部なのかもしれない。心も、温度も、生きる意味も、生きている実感も。



 彼との部屋を出た時、俺を埋めていた感覚はそんなものだろう。
 


 離してはいけなかった。何があってもあの手を離してはいけなかった。

 けれど、繋いでいた筈の手がどんどん痺れて、針を刺すような痛みを感じないくらい麻痺していって。何の為にここにいるのか判らなかった。愛している、と口に出していただけのような気さえする。そこに本当に、感情はこもっていたんだろうか。
 愛してると言う度に耳鳴りがして、自分が偽者になっていく気がした。確かに愛している筈なのに。筈、なのに。

 憎んでいたのは彼以外の全て。大切で、だからこそ放り投げられないことを憎んで。
 彼に対しては──愛して欲しかった。愛していると教えて欲しかった。言葉じゃなく、躯でもなく、ならなんだと言われてしまいそうだが。判らせて欲しかった。愛されているんだと。

 別れの台詞を吐いても、止めてくれると思った。本当は引き止めてくれると、あの瞬間心のどこかで思っていた。どんなに言い争っても、最後は自分の手を取っていてくれると甘えていた。
 今まで、彼との諍いで何があっても彼が離れようとしても俺が手を離さなかったように。
 けれどそれがなかったとき、彼も限界だったんだと悟った。
 そこで訂正できない、手をもう一度伸ばせない俺も限界だったんだと悟った。
 そもそも、自分から別れようと言えてしまった時点で限界だった。
 
 死にたかった。死ねなかった。こんなときまで周囲を気にする自分が愚かしかった。いっそ狂ってしまえばいいのに、楽だったのに。二の舞、箱庭、そんなキーワードが脳を巡るたびに、自らの消去を踏みとどまった。
 消えたかった。消えられなかった。
 否、死んではいけないと、消えてはいけないと思っていた。
 
 ぼろ雑巾のような俺を助けてくれた人は、眠るのも手段だと言った。けれど、時間を止めることの方が俺は恐ろしい。成長する事も出来ず、何よりこの感情を抱えたまま時間を止めるなんて出来ない。誰のためでもない。自分が怖い。体中の血が流れているまま時間が止まっても、動き出したそのときに血が止まっているなんて考えられない。
 彼にも言われた時、俺は死んだほうがいいのかと思った。俺が生きていること自体が彼の傷を癒す雑音にしかなり得ないのかと。だから、眠ることを薦めてくれるのかと。穿った見方しか出来ない自分にも嫌気が差したが、プラスの思考にはなれなかった。

 心配してくれる人も、気遣ってくれる人も、護ってくれる人も、場所をくれる人も、愛情をくれる人もいた。
 感謝してもしきれない。 

 けれど、暫くの間、時間だけが、真に俺の味方だった。

2009年05月27日

椎奈 独白


 ひらりはらり、深海に降り積もる純白の雪、マリンスノー。
 一見美しい字面と響きを持つこの現象の正体は、海中に漂う微生物達の屍。誰に知られる事もなく逝った屍は、その灯火が消えた悲鳴さえないままに海底へ積もり、やがて母なる惑星へと還って往く。新たなる命を育む為に。
 それは初めから決まっていたこと。命が生まれ、育まれ、そして此処に辿り着くその回帰。
 人の想いもまた、似通っている。想いが生まれ、育まれ。ただ、その先にあるものが屍か、はたまた異なる何かか、そこだけが異なる。
 だが悲しむ事は無い。屍となった想いは、いずれ己の養分となり、新たな思いを育む源となるのだ。また、そうしなければ人という弱い生き物は生きていけない。

 ──だから屍の喪に服す事は無い。心の深海に降る白い涙は、当の昔に命を喪っているのだから。

2009年01月23日

水城&戒 地上


 車が、人がせわしなく行きかう新宿のとある交差点。
 駅から少し離れたその場所で、一人の青年がガードレールに腰掛けていた。
 深い黒緑のしなやかな髪を、無造作にうなじの辺りでくくっている。そして最も印象的なのが、髪の色よりも尚濃い色の、全ての光を吸い込んでしまいそうな闇色をした瞳。
 一見華奢な躯つきだが、座っていても長身なのが見て取れる。もしかしたら海外の血が入っているのかもしれない。その姿はどこか日本人離れしているように感じられた。
 片膝をつき、その上にひじを乗せて頬杖をつき、ぴくりとも動かない姿は彫像を連想させる。
 何をするでもなく、ただ喧騒と景色を瞳に写しているだけ。だが彼の視線は宙を彷徨っていて、放心している様にもみえるその姿は、現実ではなく心の風景を見つめているようにも思えた。
 彼の周りを包む空気は一種独特っだ。
 なんと説明したものか、そこだけ「音」がないのだ。
 都心独特の排気ガスを多量に含んだ、いつ光化学スモッグがおきてもおかしくない汚れた都会の空気の中、彼の周りだけが世界から切り離されているかに感じる。
 浮き彫りになった無音の空間。それは彼が孤独を望んでいるからに他ならない。
 他人を拒絶し、過去を拒絶し、自分を拒絶し、果ては未来を拒絶している。
 何故解るのかというと、一人で居たいと如実に語る空気を纏う、かつての自分に重なるからだ。
 この街には、様々な事情を抱えた人間が多く存在する。彼もきっとそのうちの一人なのだ。
 それならば、放っておくべきなのだろう──だが、次の瞬間私は意思とまったく逆の行動に出てしまった。
「君」
「……なんでしょう?」
 返答が返ってくるとは思わなかった。
 テノールのさわやかな声音も、機械的に発すると酷く冷淡に感じるのだということを私は知った。
 だがそれなら、と。
 私は、感情の伺えない表情の彼に向かって笑いかけた。
「こんなところで座っているくらいなら、私の店に来ないか?」
「……折角ですけれど、遠慮します」
 唐突過ぎる私の申し出に、彼はいささか眉をひそめる。新宿の繁華街という特性上、これではナンパだと思われても仕方のない文句なのは重々承知している。
 まぁ反応としては当然だろうと思いながら、私は胸ポケットから名刺ケースを取り出した。
「そう言わずに。実は今日、何度か此処を通りかかったんだけれど、君ずっとここに居るだろう? ポーズも全く変わっていないし、一ミリたりとも動かずに此処に居たのなら流石に喉が渇いているんじゃないかと思ってね」
「……」
「無論、言いだしっぺの責任として奢らせて貰うよ。私は此処からちょっと先にある店を経営しているんだ。これは名刺。店といっても普通に飲食を楽しむ場所だから、そう警戒しないでくれると嬉しい」
「……戒、と言います」
 私の差し出した名刺を見、青年は短くそう答えた。
 相手の名前を聞いて、自分も名乗る。
 傍から見ても怪しく思われて仕方のない自分に対しても礼儀礼節を忘れないこの青年に、私は興味だけでなく好感を持ち始めていた。
「この名刺が偽物でないという証拠はないけれど、これで一応、身の証は立てたつもりだよ。誘いには応じてくれるかな」
「……そう、ですね。一杯だけならご馳走になります」
「それは嬉しい。なら、早速だけど移動しないか? こんなところで立ち話を続けていては本当に排気ガスで喉をやられてしまうよ。折角綺麗な声をしているのに勿体無い」
「……」
「ああ、下心はあまりないから安心してくれ……なんて、余計に怪しいかい?」
「……いえ。ありがとうございます」
 無気力気味に、戒と名乗った青年はフラリと立ち上がり、私の横に立った。
 彼を包む独特の空気は未だ健在で、私を──世界を拒絶しているのがありありとわかる。
 それでも、「私という存在」を認識はしたようだ。拒絶をする事が出来ているのだから。
「では、行こうか」
 うな垂れるように頷いた彼を先導するように、私は自分の城へと足を向けた。

2009年01月22日

白及×藤乃 (羽山×ファイ) 平安 18禁