2010年03月04日

X-Day (8)


 バレンタインデー──それは、愛する人へ気持ちを込めてチョコやらクッキーやら、果ては色々なプレゼントを贈る日。女性が男性に贈るのが一般的ではあるが彼等は互いに同性、つまり男性同士だった。
 なら、どちらがあげてもさして問題はないだろう。要は愛する人が喜んでくれれば良いのだから。
「とりあえず、量か」
 ふむ、と彼──依皇は思考を巡らせる。腕の中で眠る愛しい恋人である水の寝顔を堪能しつつ、頭ではバレンタインに何をプレゼントしようか悩んでいた。
 どうすれば、何が一番喜ぶだろうか。水は見かけによらず非常に大食漢であるので、先ずは量があるといいだろう。沢山食べるとなると、飽きがこないよう複数の味があると良い。
 そうなると手軽なのはクッキー辺りだろうか。搾り出し、アイスボックス、型抜き等見た目も楽しんでもらえる。ショコラ、プレーン、ナッツと味も多くのバリエーションがある。惜しむらくは、ケーキなどとは違ってあまりお腹にたまらないことである。
「作るとしたら、前の日かな。それとも、当日に作ってお茶をしてもいいか」
 バレンタインと言っても依皇は別段水に内緒で作るつもりはないので、一緒に作っても良いと思っていた──というか依皇は水を片時も腕から放す気がないというのが一番の理由だが。
 プレゼントについては、今回は全員同じくマフラーにするのだと聞いている。
 折角だからおそろいで作るか、それとも長い一本のマフラーを編んで二人で使うか。
 三十路を超えた自分がマフラーを編んでいる姿というのもなかなかシュールさを感じさせるが、愛する水の為であればどんなことでも依皇は羞恥を感じないだろう。
 何より、水の為に何か出来ると言うことの喜びが勝るので、羞恥などという感情自体が生まれないかもしれないが。
 そんなことを考えつつも、すやすやと眠る水の穏やかな寝顔をじっと見下ろしていたのだが。
「……」
 いつものパターンではあるのだが、ふと悪戯心がむくむくと沸いてくる。
 瑞々しく張りのある陶磁器のような美しい肌に咲いた、形の良い水の唇にそっと口付けると、水の喉奥から吐息と共に僅か鼻にかかった甘い声音が漏れた。
 ごくりと喉を鳴らした依皇の瞳が獣を思わせるほどの鋭さを帯び、官能的な表情が浮かぶ。
「……水」
「依皇さ……」
 眠りが浅かったのか、無意識に返答する水の唇を再度塞ぐと、痙攣したように水の躯が軽く跳ねる。恐らく熱の余韻が抜け切っていないのだろう。
 触れるだけの啄ばむようなキスを暫く繰り返していた依皇だったが、唇を離し意識的にゆっくりと呼吸する。
 それを何度か繰り返し、ふう、と息を吐いたときには、依皇の表情は先程の穏やかなものに戻っていた。
 いけないいけない、と依皇は一人呟く。
 今夜は『かなり体力を消耗させてしまった』ので、ゆっくり寝かせてあげようと決めていた筈だったのだが、水の艶やかさに思わず我を忘れてしまうところだった。
「まったく、今日はおとなしくしていようと思ったのに。水がこんなに可愛いからいけないんだよ」
 勝手に恋人の所為にしてから依皇は、静かな寝息を立てる水の汗ばんだ額に優しく額に口付けた。

2010年03月03日

X-Day (7)


「痛っ……」
 紅い血が白く細い指先から溢れ、つうっと伝い落ちる。傷自体はそんなに深くはないのだが、細い血管が多く集まっている指はちょっとした怪我でもそこそこ出血してしまうのだ。
 手にしていた包丁を慌ててまな板に置き、彼──桜(ロウ)はとりあえずの応急処置に切ってしまった人差し指をぱくっと銜えた。
 ほんのりと甘い鉄の味が口内に広がる。自分から流れた血を再び自分の中に取り込んでいる気がして、桜は少々不思議な感覚を覚えていた。
 彼の嗜好として血生臭いもの、例えば生のレバーやステーキのレアに代表されるような食事はあまり得意ではなかったのだが、今口内に広がる血の味は別段嫌な感じがしないのが不思議なのだ。
 舌先で傷口を軽く舐めると、ピリッとした痛みが指先を震わせた。
 キッチン台に寄りかかり暫く奏そうしていたが、数分も経てば流石に血は止まったらしく、こんなこともあろうかと用意しておいた絆創膏を傷口に貼る。
 ついでに、と乱れてしまった髪を直す為、一旦髪留めを外した。虹のような不思議なグラデーションがかかった長い髪がさらりと広がり、それを再び一つにまとめた。
 いつもならな綺麗に結い上げてくれる人が傍にいるのだが、生憎と今は一人。桜では後ろにまとめるのが精一杯である。
「ふう」
 これで作業が再開できる、と桜は気合をいれて再び包丁を手にする。
 作っていたのは、今年のバレンタインに贈るチョコレート。少々難易度は高いが、桜は手作りトリュフに挑戦してみようと思い立った。
 レシピは既に調達済み。プロのパティシェが協力してくれて、素人の桜でも簡単に作れるようにと作業をかなり簡略化したものを貰ったのだ。
 持つべきものは技能持ちの仲間である──の、筈だったのだが。
 板状のクーベルチュールチョコレートを刻むところ位は出来る、と頑張ってみた結果がこの傷だった。
 ちなみにこれで使用した絆創膏は三枚目。つまり通算三つ目の怪我だ。
 製菓用板チョコは厚さも硬さもあり、包丁で削っていくのが基本であるが、桜はお世辞にも包丁さばきが上手いとはいえない。
 根本的に、桜はあまり器用ではないのだ。
 以前レース編み等を経験していたおかげか、プレゼントのマフラーはなんとか完成させることが出来た。相手の髪色に合わせた深い緑の毛糸を使ったマフラーは、多少目が飛んでしまっているが、使う分には一応問題ない。これは既にラッピングを終え、渡すだけとなっている。
 が、肝心のチョコがこの調子ではどうしようもない。
「……」
 悔しさと悲しさのあまり、桜の視界が涙で歪んだ。
 心から尊敬し愛情を捧げている人に手作りのチョコレートをあげたいだけなのに、それすらまともにこなせない自分が歯がゆかった。
 既に削られているチョコを用意してもらうのが早いのは判っているのだが、少しでも多く想いを込めたい桜にとってその選択肢は考えられなかった。
 意を決し、傍から見ればいっそ悲壮なほどの表情を浮かべた桜は、恐る恐る包丁をチョコレートに添える。
 全身を緊張させた桜が息を呑んだそのとき、ふと背後に気配が顕現した。
「桜」
「ひゃっ!」
「……そんな驚かなくても」
 後ろから声をかけたんだから驚かせても仕方ないか、と笑うのは様子を見に来た戒だった。今日はバレンタイン前日、企画者として全員の様子を見て回っているのだろう。
 誇張ではなく驚きのあまり飛び上がりかけた桜が、四つ目の怪我を負わなかったのは奇跡といっても過言ではないだろう。
「あ、いえ、そのすみません」
「ううん。俺も悪かったし……って、やっぱりあのクーベルチュールじゃきつそうだね」
 桜の指、絆創膏、まな板のうえのほぼ削られていない製菓用チョコと順々に視線を運び、状況を一瞬で把握したらしい戒がうんうんと頷く。
 自らの稚拙さを言い当てられた気がして、桜は羞恥に頬を染めた。
 下を向いてしまった桜の頬に涙が伝っているのを見た戒が、すっかり気落ちして下がってしまった桜の肩に手を置いた。
「俺も、忙しすぎてつい気が回らなかったんだ。幾ら桜が頑張りたいって言ってても、そこはちゃんと『こっちのがいいよ』って言うべきだったんだ。ごめん」
 ふるふると、桜は俯いたまま首を横に振る。
「ね、桜。少しでも多くの工程をこなして、風龍へ沢山想いを込めたいっていうその気持ちも、用意されたものを使うんじゃ嫌だってのもわかるよ」
 俺自身が凝り性だからね、と戒が困ったような苦笑いを浮かべた。
「でもね。その為に桜の指に怪我が増えていくのを風龍が知ったら、どっちのが良いって言うと思う?」
 核心を突いた戒の言葉に、それまで俯いていた桜はハッとして顔を上げた。
「きっ……と、悲しいと、仰います……」
 優しいあの方に心配をかけたくない──涙で詰まってしまっている喉からしぼりだすように、桜はたどたどしく言葉を発する。
 そうだね、と戒が慰めるように桜の肩を撫でた。
「確かに削ることは出来なかったかもしれないけど、そこから先テンパリングからは桜がするんだし、どんな風に作ったって込める愛情の大きさは変わらない。だろ?」
 泣きじゃくる桜の手に、戒から小さな袋がまとめて手渡される。半透明のそれに入っているのは、既に削られた幾種類かのチョコレートだった。
「じゃ、はい。これ使って、美味しいトリュフで風龍をびっくりさせてあげるといいよ」
「ありがとうございますっ……」
「他に何か必要になったら、呼んでくれれば何かしら対処するから。我慢禁止だからね」
「はいっ」
 じゃあまた、と言ってその場から戒の姿が消える。恐らく、次の巡回先に向かったのだろう。
 手にしたチョコレートの袋たち。これらを使っても、想いのこもったトリュフは作れる。些細な意地を張って、大好きな彼の人に──既に負ってしまった怪我は隠しようがないので仕方ないが、これ以上余計な心配をかけることもない。
 後はすべて、桜次第なのだ。戒の言うとおり、込める愛情の大きさが変わるわけではない。
「……頑張ります。だから、待っていてください……風龍殿」
 相手の名を呼ぶだけで心が温かくなる──微笑んだ桜は戒が消えた辺りに向かって一礼し、トリュフ作りを再開した。

2010年02月27日

X-Day (6)


 去年のバレンタインも、その前のバレンタインも、すごくすごく美味しかった。今年のお菓子もきっと美味しいだろうから、俺も頑張って美味しいお菓子を作らなきゃ。
 でも、何を作るか何をあげるとか、内緒にしたりしない。
 だってそんな事をしたら寂しい。内緒にしている間、傍に居られない。作るときにも一緒にいたい。離れていたくない。
 そんなのはいやだから、今年もバレンタインは、美味しいお菓子を二人で作って交換しあうんだ。


「キール」
「なに? 翼空」
 くしゃり、とキールの大きな手が、翼空の柔らかな髪を優しく撫でる。
 大好きな従兄弟の唇が自分の名を響かせたのを聞いて、翼空はこのうえなく幸せそうに微笑んだ。
「ううん、キールって呼びたかっただけ。あと、バレンタインが近いなあって。なんとなく思った」
「ああ。そうだね」
 温かみのあるカーペットが敷かれた床に座り込んでいた翼空は、趣味のよさを感じさせるロッキングチェアへ優雅に腰掛けているキールの膝に頭を乗せて軽く体重を寄せる。
「温かい、キール」
「翼空も温かいよ」
 手を伸ばしたキールが翼空の頬をくすぐるように撫でた。
 相手、キールの体温が伝わってくること──それは、翼空にとって充足する瞬間であり、またそれは翼空にとって、なければ生きていけない要素だった。
 閉塞したこの空間に来て以来、もう何年もこの最愛の従兄弟以外と口をきいた覚えがない。初期には自分を診てくれる医師も居たし、その他にもよく覚えていないだけでもしかしたら誰かとあったような気がしなくもない。
 が、それは翼空にとって、とりたてて重要な事柄ではない。肝要なのは、翼空の手の届くところにキールが居るということなのだから。
「くすぐったい」
「いや?」
「ううん。そんなことない、キール」
 どこかしらキールに触れていたい──それは生存本能に近い感情かもしれない。
 多少ならば問題はないのだが、長い間触れることが出来ないと、水を奪われた魚のように飢えて飢えてキールを求めてしまうのだ。
 翼空にとってキールの居ない、キールと離れている時間は、本来の数十倍にも感じられるのである。
「キール……キールが大好きだよ」
「うん。俺も翼空が大好きだよ」
 温かいキールの膝に頬を摺り寄せながら、翼空は胸のうちにふと浮かんだ、爪の先にも満たない小さな不安を見なかったことにして微笑んだ。
 声の調子から何かを感じたのか、キールが翼空の顔を覗き込む。
「翼空……?」
「キール」
「何か思っているなら、聞きたい」
 キールに嘘をつきたくない──そう思った翼空は己の中に答えを求め、キールの膝に顔を伏せた。
 そうして、先程見なかった事にした不安をゆっくりと引きずり出す。
 翼空の中に漫然と在り続ける考え──それは、いつまでもこの閉じた世界にいてはいけないのではないかと、そう囁き掛ける自分の存在を感じる時があることだった。
 人には課せられた役割というものがあり、以前に戒められた枷からは逃れたとはいえ、新たな指標も見出さず、ただ安穏とここで暮らし続けてもいいのだろうかと。
 ただその考えが胡散霧消する原因は、とある恐怖が勝るからである。
 それは、閉じた世界を開放することによって、キールが自分を置いてどこかに行ってしまうのではないかという懸念だった。
 いつからここまで依存してしまったのか、それは翼空本人にもわからないが、翼空は最早キールが居なければ生きていけない。
 だがキールはどうだろうか。少なくとも翼空の目からみてキールは自立した一人の青年であり、元来社交的な性格であることも知っている。端正な容姿は衆人の耳目を集め、周囲が放っておかないだろう。
 その中から翼空以外の大切な人を見つけてしまうかもしれないのだ。
 この閉じられた場所に居るからこそ、キールは自分を一番に見てくれているのではないか──その結論は翼空にとって恐慌を呼ぶものでしかなかった。
 真摯な眼差しを浮かべ、キールは俯いたままの翼空をじっと見つめている。翼空が考えをまとめ、今出すことの出来る答えを待っているのだ。
 暫しの逡巡が胸のうちを駆け巡った後、翼空はゆっくりと顔を上げてキールを見つめ返す。
「キール。俺は……ずっとキールに頼っていて、それで良いのかって思ってた。何もせずに、あるかもしれない役割を果たさないで、ずっとこの部屋にい続けて良いのかって。キールのことも、俺がいるからキールは自由に動けないのかもしれないって。キールは……キールは、この部屋が好き?」
 正直なところ、翼空の考えはまとまっていなかった。ただ上手く言えなかったとしても、不安に思った事をありのまま話す──それが翼空の結論だった。
 終始穏やかな表情で静かに話を聞いていたキールだったが、最後自分に向けられた問いに、笑みを浮かべながら口を開く。
「その質問に答える前に、いくつか質問をさせて欲しいんだ。翼空、翼空はこの部屋から出て行きたい?」
「……ここに、いたい」
「どうして?」
 それは、と翼空は一拍置いてから続ける。
「キールが居るから」
「俺が居ないこの部屋は好き?」
 優しい声音をしたキールの丁寧な質問は、まとめた考えを補ってくれるように感じられた。
「……嫌い」
「俺もだよ、翼空。翼空が一緒にいるこの部屋が好きだから、ここにいる。翼空は?」
 優しい笑顔と言葉を向けられた翼空はハッとしてキールを見つめた。
 それにね、とキールは翼空の返事を待たずに言葉を続ける。
「自分に何が出来るんだろうって翼空は言うけど、こうして俺を温かくしてくれるのは翼空だよ」
 キールの言葉一つ一つが翼空を包み込み、細胞が酸素を求めて呼吸するように緩やかに全身へとしみこんでいく。
 たった一つ大切なもの──相手と一緒にいるこの場所が好きだからここにいたいということ。キールを温める事が出来るという、それに勝る価値のある役割を翼空は知らない。 
「キール」
 憂いの消えた笑みで、翼空はロッキングチェアに腰掛けたままのキールの足に腕を絡めた。
 多くの言葉は要らない。こうして温もりを感じあうことが何より大切なのだから。
「翼空。今年のバレンタインも、一緒に作ろう。来年も、そのまた次の年も。ずっと、この部屋で」
「うん。うん、キール」 
 幸福感で胸をいっぱいにしてキールの膝に顔を埋める翼空の上で、微笑んでいたキールの口角が僅かに上がった。

2010年02月26日

X-Day (5)


 彼は悩んでいた。
 沈着冷静で内面の葛藤などおくびにも出さないし一切気づかせていない。が、確かに悩んでいた。
 お題目は、この時期お約束といって良いだろう、今年のバレンタイン。
 プレゼントに何をあげるのかは決まっている。お節介な仲間の一人が提唱したおかげで、マフラーを編む羽目になった。仲間内全員がマフラーをプレゼントするのだが、色や柄、長さは個人の自由。それならば恋人の髪色に映えるよう黒にしようと思ったが、黒は「誰か」とそろいになると知り銀糸をちりばめた淡いグレーに変更した。
 その「誰か」とのそろいで恋人の嫌がる顔を見たい気もしたが、このところ自分が編み物をしている姿を嬉しそうに眺めているのを見ると、そんな意地悪もやめておいてよかったと思う。
 彼の恋人とは、彼に対する想いの深さゆえなのは重々承知だが、一度落ち込ませるとなかなか浮上する事が出来ない厄介な相手なのだ。出来る限り落ち込ませないに限る。
 ──それはともかく。
 では、彼がいったいバレンタインの何に悩んでいるのかというと、一緒に手渡す菓子をなんにするか。そしてどんなタイミングで渡すか、という事だった。
 実際「何をそんなくだらないことを」と彼自身思う内容であるのだが、簡単に解決しないのだから仕方ない。
 先ず第一に、何の菓子をあげるかという事だった。元来、彼は製菓が得手ではない。周囲の菓子名人が手作りの美味しいケーキやらクッキーやらをこさえている横で、自分は凡庸な菓子をあげるというのは、彼の矜持をいたく傷つけるのだ。
 いつもならそんなに気にしないところだろう。他人と比べる事さえ馬鹿らしいと、普段の彼ならば一笑に付すに違いない。
 けれど今年は違う。何故なら、プレゼントが皆同じ手編みのマフラーなのだ。つまりそれは、裏を返せば比較が容易であるという事に他ならない。
 基本的に器用なので、編み物はどうにかなった。というか、マフラーは難易度の低い代物なので多少の手習いをするだけで完成は容易だった。
 だが菓子作りとなるとそうはいかない。
 いっそ有名メーカーのものを買うか、それとも力を尽くして作るか。それが一つ目の悩みだった。
 二つ目、タイミングについては十四日当日に渡せば良いだけ──の筈なのだが、彼には当日朝からそわそわしているだろう恋人が容易に想像できる。
 その様子をいつまでも眺めて焦らし続けたいという意地の悪い思いと、そうして焦らしてしまったら確実にタイミングを逃すうえにだんだん萎れていくだろう恋人も想定の範囲内。線引きの見極めが重要になるのだ。
 そして肝心のバレンタインが近いというのに、ため息ばかり出るのである。
「……はあ」
「隆生?」
 名前を呼びかけられ、彼──隆生はハッとして恋人の顔を見る。そこには心配そうな表情がありありと浮かんでいた。
 昼下がりのテラスに湯気が立ち上る紅茶、そして恋人の焼いたアップルパイ。長い思索の旅から帰った隆生が自分の置かれた状況を思い出す。
 そう、今はティータイムをしていたのだった。 
 どうやら随分と深く思考の海に沈んでいたらしい。一度呼びかけられたのに反応しなかったくらいでこんな心配顔はしないだろうし、恐らく三、四度は呼ばれても返答しなかったのだろう。
 だがここで思惑を気づかれるわけにはいかない。
 何でもない、と隆生は静かに首を横に振る。
「このところ、慣れない作業をしていた所為か少し疲れているらしい」
「ああ……なら、少し休んだほうが」
「大丈夫だから。アウル」
「しかし」
「俺が大丈夫といっているのだけれど?」
 それ以上続けさせないと言わんばかりに、隆生がきっぱりと言い切ると、まるで印籠を出されたかのようにアウルは押し黙る。
 隆生がこういう言い方をした時、余程の事でない限りアウルは反論しない。またそれを判って隆生もそんな言い方を選んだのだ。
「……判った。けれど、辛くなったら」
「勿論、自分の躯は自分が一番良く知っている。無理をするつもりはない」
 にっこり微笑んだ隆生は、これでこの話題は終わったというように、綺麗に切り分けられたアップルパイにフォークをさす。
 丁寧な所作でアップルパイを口内へと運ぶ。さくっとしたパイの心地よい食感と香ばしさ、甘さと酸味の絶妙なバランスの林檎、そこに加わる程よいシナモンの香りと文句の付けようがないほど素晴らしい。
 こんな相手に手作りの菓子をあげて、尚且つ比較されるかもしれない──プライドの高い隆生にとってそれは、やはりどうしても避けねばならない。
「味はどうかな。今日は少し甘みを押さえてみたんだけれど、君の好みに合っているだろうか」
 謙虚に微笑むアウルに、隆生は表面上の笑顔で返す。
「今日のも十分美味しいよ、アウル。流石だね」
 良かった、と安心しているアウルを前にして、隆生はとある決意をする。
 美味しいと有名チョコレートの店を調べ、今年はそこで買うということを。そして今年のバレンタインは23:58分に渡そうと心に決めたのだった。
 ──勿論後者については、アップルパイをこんなにも美味しく作る事の出来るアウルへのやっかみ……もとい、八つ当たり……でもなかった、ちょっとした仕返しである。
「隆生、お茶のおかわりは?」
「貰おうかな」
 暖かい午後の昼下がり。
 一見のどかなティータイムは、まだまだ始まったばかりだった。

2010年02月25日

X-Day (4)


「チョッコチョコチョコチョコレート、甘くて美味しいチョコレートっ」
 変声期を終えたばかりと思しき少年──といっても彼の時間は少年のまま永遠に止まっているのだが──が、鼻歌交じりにメロディを口ずさむ。耳心地の良い声ではあるが、歌詞も旋律も即興なので多少調子が外れているのはご愛嬌だろう。
 銀色のボウルを小脇に抱え、カラカラと泡だて器で中の生クリームをかき混ぜる。
 ピン、と角が立つまで混ぜる必要がある生クリームを作るのは、これで結構重労働だったりする。電動ミキサーを使えばあっという間なのだが、彼──焔は手作業で作るのが好きだった。
 洗い立ての白いコックコートに身を包むと、気分はいっぱしの菓子職人だ。一応、仕事としてケーキやらクッキーやらを作っていた過去があるにはある焔だったが、別に調理人の資格を持っているわけではなかったりする。
「なんちゃってパティシェだよなあ、このカッコ」
 コスプレみたいで嫌いじゃないけど、なんて軽口を叩きながら焔は手を動かす。
 ボウルの中は、すっかりクリーム状になっていて、泡だて器を軽く持ち上げると、しっかりと角が立った。ついでに常温で放置しておいたバターに小指の先を沈めて柔らかさを確認する。これならもう作り始めても大丈夫だろう。
 うんうんと出来に満足して頷いた焔は、近くにいた有能アシスタントのイシルを手招きして呼んだ。
「イシル、この生クリームにバニラエッセンス混ぜてから軽く混ぜてラップして冷蔵庫っ」
「うんっ」
 わくわくと好奇心いっぱいの瞳を輝かせたイシルが駆け足で焔に走り寄り、ボウルを受け取ってよい返事で敬礼のポーズをとる。
 身に着けたピンクの花柄エプロンは、焔の恋人である火龍が彼女に似合うと用意したもので、柔らかい色合いがイシルに良く似合っている。女の子らしく長い髪を邪魔にならないよう丁寧にくくったのも火龍だった。
 妹分のイシルは、焔にとって可愛くて仕方がない存在だった。一人っ子だった所為もあって、妹か弟が欲しかった焔にとってイシルはいくら可愛がっても可愛がり足りない。
 バニラエッセンスの入った茶色の小瓶を受け取ったイシルが興味深げにその蓋を開けると、なんともいえない甘い香りが周囲に広がる。
「焔、これ、どれくらい入れればいい?」
「んー、バニラエッセンスは香り付けだからちょこっとだけ。舐めたらダメだぞー、苦いから!」
「はーい」
 再び走っていくイシルを目で追いながら、水色のエプロンを身につけたもう一人の少年が耳を軽くかく。
「……で、俺は何すれば良いんだ」
「和希はこれ、振るっといて。んっと、四回くらい」
 手渡された粉の量を見て、「げっ」と和希が面倒くさそうにつぶやく。
「そんなにやんなきゃいけないのかよ。しかもこれ全部?」
「美味しいミルクレープ食いたいから手伝うって言ったの和希だろー」
「そうだけど」
「なら文句言わないできびきび手を動かすっ」
 腰に両手を当てた焔は和希に向いて、びしっとポーズを決める。
 今日のところは勝てる立場に居ない和希は、不承不承ながらも焔から粉とふるいを受け取っておとなしく台に向かった。
 旧知の仲である和希の性格は良く知っている。なんだかんだ文句を言いつつも真面目に作業してくれるだろうから、粉の事は心配ないだろう。
 今回のバレンタインで焔が作るのは、自信の一品であるミルクレープだった。生クリームをふんだんに使う分、保存が効かないのでこうして前日に作っている。
 ちなみにアシスタントを買って出てくれたイシルは、昨日のうちに焔がレシピを書いたチョコチップクッキーを作成済み。あとはラッピング用品が届くのを待つばかりなのだ。
 明日までに間に合うかと焔は指を折りながら残りの過程を思い浮かた。
「あとは生地を焼いて、ソースはイチゴとカスタードと……トッピングはチョココーティングしたイチゴだなっ」
 そこまで呟いて、焔は忘れ物をしていた事を思い出す。
「あっちゃー。生イチゴ足りないかも」
 ソースを作るイチゴと別に、チョココーティングして飾りつけるイチゴが必要なのだ。正確に言えばトッピングにイチゴを使う事は覚えていたのだが、想定していた以上の数量を、ソースに使ってしまったのだ。
 困り果てた焔は胸の前で腕を組み、「むう」と唸る。
 他のフルーツで代用しても良いが、焔が作りたいのは恋人である火龍が好きだと言ってくれたイチゴとチョコのミルクレープなのだ。
 出会って間もない時に作って、美味しいといってくれたあの笑顔が忘れられない。
「まだ間に合うかなー」
 最後の仕上げに要るものだから材料を今から頼めれば大丈夫だろうけれど、問題は肝心の頼む相手がいつ来るか判らないことだ。
「チョコかマジパンでなにか作るかあ。でも俺工芸菓子はちょっと苦手なんだよなー」
 イチゴは無理だろうかと、諦めかけたそのときだった。
 冷蔵庫の辺りでイシルが歓声に沸く。
「イシル、ラッピング用品を持ってきたよ。これがリボンでこっちが袋。透明のとカラーのがあるから、二重に重ねると綺麗だよ?」
「ありがとうございます!」
 悩んでいる焔には、まさに天の助け。
 ふとそちらに目をやると、そこにいたのは、イシルのラッピング用品を届けにきた、今回の企画の雑用兼使い走り──戒だった。
 仕事前にこちらに立ち寄ってくれたのだろうか、カッターシャツに黒いパンツとジャケット姿の戒に駆け寄った焔は、その細い腰に飛びついた。
「戒さま! イチゴくださいイチゴ!」
「え?」
 何が起きたか事態の把握が出来ない戒に、とりあえず焔は事情を説明する。
 と、心得たとばかりに戒が頷いた。
「うん、わかった。今日中に届けるよ。ブランドはどこでもいい?」
「チョコに合うやつならなんでも!」
「了解。じゃ、頑張ってね」
「はい、ありがとうございました!」
 ぺこりと焔が頭を下げている間に、戒の姿は消えていた。バレンタイン前日、いつもより更に忙しいのだろう。 
「よっし、頑張るぞっ」
 大切な、大好きな人に喜んでもらう為に。
 その人の笑顔が見たい、自分の為に。
「和希ー、粉ふるい終わった?」
「当然」
「さんきゅっ。なら生地焼くかー! 待ってろよ和希、うまーいミルクレープ食わせてやるから」
 ラッピング用品を抱えたイシルが遠くから声をあげる。
「焔、イシルはー?」
「ん、イシルの分も勿論だっ!」
 自分の作るケーキを皆が楽しみにしてくれて、皆が笑ってくれている。
 幸せな気分に浸りながら、焔はクレープ生地を焼く鉄板を取り出した。