2010年05月15日

変化


「ユー院長、最近変わりましたよね。なんていうか、目が優しくなった気がします」
 患者達の巡回を終えて自室に戻る道すがら、たまたま同行した同僚の医師天使にそう言われた俺は、思わず苦笑した。
 結構驚かれるのだが、天使でも怪我はするし、病気になる。老いや寿命がないというだけで、心身を損ねることは避けられない。天使の躯は自己修復能力に秀でているが、やはりそれにも限界がある。特に精神に負う傷の厄介さは人間であった頃の比ではない。そういった天使達を収容し、治療しているのがこの病院だった。
 治癒能力を備えた天使たちが医師や看護士となり、仲間を支えている。
 俺はそれらの監督役であり、院長という役職についていた。天使という存在になった歴史はそう古くなく、むしろ浅い。そんな俺が院長を勤めていられるのは、生前医学を学んでいたからというよりも、単に潜在能力が高かったというだけだろう。
 医師天使としてのキャリアは俺よりも長いその同僚は、俺の苦笑を畳み掛けるように言葉をつなぐ。
「こう言っては何ですが、他の医師達や患者からも昔の貴方は怖いって評判だったんですよ。腕は良いのに、愛想笑いしか浮かべないって」
「……否定しようが無いな」
「ファイ様がいらしてるときは素の貴方が見られましたが、それで余計感じたんですよね、私達に壁を作ってるって」
 そういえば、と俺は昔を振り返る。確かにあの頃は、心許して対話をしていたのは、同位であるファイくらいだった。もう一人の同位である椎奈……いやシータはどこか会話が機械的で堅苦しく、おおよそ冗談も通じないと思っていた。今の椎奈には面影のかけらも無いが。
 ファイに対しての態度と、同僚医師天使達への態度に分け隔てをしていたつもりは無いが、愛想笑いと看破されていたのであれば返す言葉も無い。
 言ってみれば仕事が円滑に進むよう『優しい院長先生』を演じていたに過ぎないのだから。
「で、今は違うのか」
「ええ」
 医師天使キャリアだけでなく、外見も自分より十は上の同僚は記憶を手繰るように目を細める。
「椿さんがお手伝いに来るようになって、そこかしこで豹君の姿を見るようになって、本当にお変わりになりました」
「例えば?」
「そうですね。普段ファイ様以外に決して悋気を見せなかったユー院長が豹君に走り回るなとお説教をしていたり。椿さんが看護士達と和気あいあいしているおかげで、以前なら決して入ろうとしなかった輪に混じってこられたり。そうそう、こうして道すがら雑談なんてしなかったでしょう?」
「言われてみれば、そうだな」
「あのお二人がユー院長を良いように変えたのだと、みんな思っていますよ」
「椿は良いが、豹までか?」
 やれやれとため息を吐くと、同僚医師天使がぷっと吹き出した。
「椿さんは良いのですか」
「……ああ」
 そうですか、と微笑ましげに見つめてくる同僚医師天使の視線がどうにもこそばゆく、俺は手にしていたカルテを開いてぱらぱらとめくる。
「そう照れなくとも。ご案じなさらずとも、上には口外いたしませんよ」
 天界では天使同士が恋愛感情を持つことを禁忌としていて、上──天界の上層部にそれが知られれば重い罰が下る。
 元々天使ではない椿や豹がここに出入りしていること事態が規格外なのだが、そこは桁外れな蒼王の護りの力によるもの。彼らの存在や俺と椿の関係は、内部から告発をされれば終わりという非常に危うい均衡の上に成り立っている。
 そう考えれば、事情を知りながら沈黙を守ってくれている病院スタッフにはいくら感謝をしても足りない。
「……いつも、ありがとう」
「はい?」
「いや、聞こえなかったならいい」
「じゃ聞こえなかったということで。あ、院長室着きましたね」
 気がつけばすでに院長室の目の前だった。同僚医師天使はしれっと笑ってから「それでは」と軽く頭を下げて去っていく。
「本当に、感謝している」
 去っていく背中に小声で謝辞を述べ、俺は院長室のドアを開けた。

ワーカホリック


 所詮は与えられた場所で任じられた責務をこなす毎日を送るだけの人形。それが俺という存在だ。
 人形なんだから、たとえ俺が壊れたって代わりは掃いて捨てるほどいる。いくらだって量産できる体制が敷かれていることを知っている。
 もしかしたら、俺に似た『誰か』がすぐ隣の部屋で、今の俺よりも効率と成果を挙げているかもしれない。そうなったら今の俺はあっという間にお払い箱、どこかに払い下げされるならともかく廃棄処分になる未来だってありえる。
 だからこそ俺は存在意義を奪われないように、ただ毎日を忠実に生きるだけだ。
 キーボードをたたく指が痛んでも、眼精疲労で頭痛が酷くても、そんなのは鎮痛剤でごまかせばいい。
 俺が恐れるのは、生きる意味を失うこと──ここにいる意味を失うのが、何にも変え難い恐怖だった。
「ヴェール」
「……ノワールか。何」
 俺はディスプレイから目を離さないまま、黒の名を与えられた仲間であるノワールに返答した。一体いつの間に傍に立っていたのかまったく気配が無かったが、いつものことなのでたいして驚きも無い。
 まあ、若干心臓に悪いのは否めないが。
 黒白緑紅蒼──それぞれ五色の色を名として与えられた俺達は、基本的にここ、主の経営するビルの本社屋、存在を伏せられている地下三階で生活している。主に与えられたアンダーグラウンドな雰囲気バリバリなこのフロアは、陽が射さないことを除いて特に不便は無い。大企業だけあって置かれているものも上等だし、プライベート用の個室も仕事用の個室も与えられている。
 電子工学に長けるように作られた俺は、情報処理の仕事を専門としている。そんな俺が仕事をしやすいよう、俺専用の部屋にはコンピュータも最新のものが揃えられていた。
 五人それぞれが得意分野を持っていて、ちなみにこのノワールは主にネゴシエイション──要するに難題の交渉役を請け負っている。あとはリーダーである白、ブランの護衛も兼ねてるか。
 付け加えるなら、俺達全員の世話役も。外見年齢が精神年齢に比例している所為か、長身のノワールは傍目二十代半ば。仲間内での長兄役もしてるようなもんだった。
「そろそろ休んだほうがいい。このところろくに寝ていないだろう」
「別に、大丈夫だし」
「目を悪くするぞ」
「視力回復の施術受けるから良いよ」
「施術の類が嫌いなお前がか?」
「……」
 実際俺は定期的に受ける診断さえ嫌っていて、他人に体を触れられるのが厭う。
 俺の性格というか性癖を良く踏まえたうえでのお小言なので、それは返す言葉が無い。
 腕を組んで俺を見下ろすノワールの視線に、呆れだけでなく心配も含まれているのを察した俺は、降参とばかりにキーボードから手を離し、掌を頭の横へとあげた。
 ホールド・アップ、だ。
「了解。この続きは明日にしとく」
「明日、だな?」
 念を押すようなノワールの言葉に疑念を感じた俺は、慌ててディスプレイの時刻表示を確認する。
 時間を忘れて作業していたが、現時刻は0時を回ったばかり。
 つまり『明日』は正味二十四時間後になる。
「……やっぱ今夜まで休むことにする」
 へらっと誤魔化すように笑ってみたが、ノワールからは無言の軽い小突きが返ってきた。
「痛って」
「おとなしく二十四時間後以降にするんだ」
「……へいへい」
 こう言われてしまえば逆らう術は無い。むしろここで下手に抵抗したら、今すぐにコンピュータを電源から──勿論保存する前に、引っこ抜かれてしまうこと請け合いだ。
 それは流石に勘弁してもらいたい俺は、おとなしくノワールの言に従うことにした。
「ヴェール」
「何だよ」
 メディアにデータを保存している俺の手に、ノワールは半透明のカプセルを一錠握らせた。
「『眠れない』なら使うといい」
 普段ポーカーフェイスな仏頂面に珍しく柔らかい笑みを乗せたノワールは、それだけ言うと部屋を出て行く。
 手にしたカプセルは、見覚えのあるものだった。
 ……参ったな。流石、見抜かれてたか。
「俺が仕事してる理由、ノワールにはバレバレか」
 ノワールの出て行った扉が完全に閉まるのを待ってから、薬を握り締めた俺は半笑いで天井を見上げた。
 仕事をしてさえいれば、恐怖に支配されなくてすむ。逆に仕事をしていないと、特に眠りに落ちるまでの時間は恐怖に支配される。
 それがいやで、ひたすらワーカホリックを決め込んでいたこと、あの気が良く回る参謀にはお見通しだったってわけだ。
「んじゃ、お言葉に甘えて眠るとするか」
 メディアへの保存が終わったコンピュータの電源を落とし、俺はノワールがくれた手の中の安心──強力な睡眠薬を飲む為のお茶が入っている室内の冷蔵庫を開けた。

2010年05月14日

シェルター


 年代を感じさせる木製の扉を開けると、古めかしい音が鳴る。この店を建てるときに木目が気に入ってわざわざ取り寄せた扉は、店の自慢の一つだ。
 扉の向こうはぼんやりとしたミルク色の朝もやに包まれていた。もうまもなく陽が昇る時間にも関わらず、ちらほらと人通りがあるのは流石歓楽街の一角といったところか。
「それじゃ、今日もお疲れ様」
「はい。ではまた今夜」
「ああ。風邪が治りきっていないんだから、体の具合が悪かったら迷わず連絡するんだよ」
「……善処します」
 苦笑いを浮かべて会釈し、そのまま家路についた働き者のバーテンダーの背中を見送ってから、水城は手にしていた閉店の札を下げ、扉の前に置かれた朝刊を拾い上げると店の中へと引き返した。
 店とは別に自宅を持っているのだが、一人になった店内で朝刊を読みつつ一杯の珈琲を飲むのが開店以来の習慣だった。
 豆はその日の気分で変わる。棚からキリマンジャロを一杯分だけ取り出し、ドリップして琥珀色の珈琲を淹れた水城は、カウンターにそれを置いてから椅子に腰掛けた。
 そうしてカップから漂う香りを楽しみながら、刷りたての新聞にざっと目を通していく水城の視線が、ふと止まる。
 大きな見出しも無い、それは小さなスペースに載せられたコラムだった。
 曰く『家というのは、個を守るシェルターの役割を持っている』という書き出しから始まるその記事は、家族や家というものの大切さを力説していて、『現代日本においてもっとも見直さなければならないのは、家族の絆と帰属する家なのだ』と〆ていた。
 コラムを最後まで読みきった水城の心はノンシュガーのキリマンジャロ以上に苦いものを感じる。
 果たして自分にとって自宅、つまり家がシェルターに値するのかと問われれば、首を横に振るだろう。
 水城にとって自宅とは睡眠をとる場所であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 店内のインテリアは非常にこだわるが、自宅はというと生活に必要最低限のものが置かれているだけで、シンプルを通り越して殺風景に近い。
 両親は早くに先立たれ兄弟もなく、また家庭も持っていない自身にとっての『シェルター』は自宅である家ではなく、この店。それも、閉店後の誰もいないこの空間なのだろう。誰にでも扱える頼りない閉店の札が、閉ざされた自身の心において鍵の役割をしているようで滑稽に思えてくる。
 誰にでも扉を開き招き入れる店と、滅多なことでは開かない心の扉。
 確かに水城の自宅はシェルターと呼ぶに値しない。だが相反する矛盾に満ちたこの場所こそが、やはり自分にとってのシェルターなのだろう──そう結論付けた水城は、思いのほか長く思索にふけった所為で幾分冷めてしまった珈琲の入ったカップに手を伸ばす。
 予想通り温くなっていたノンシュガーノンミルクの珈琲が、何故だか水城にはほんのり甘みを持っているように感じられた。

2010年05月08日

開店準備中


 ミルク色の薄い霧に包まれた店の前で両手を組み、そのまま組んだ手を裏返しつつ頭上へ運んで「うーん」と軽く体を伸ばした神楽は、肩を軽く上下させてから店のシャッターに手を添えて一気に開けた。
 ガラガラと音を立ててシャッターが軒に吸い込まれ、代わりにコの字型にガラスがはめ込まれたシンプルな造りの店が顔を出す。
 ガラスの壁に大して目立った汚れはないが、神楽はあらかじめ足元に用意した雑巾でガラスを拭き始めた。
 天界と地上の合間に存在するこの場所は天候や時間の概念が曖昧なのだが、生来几帳面な性格の神楽は、生活サイクルや開店時間を地上に合わせている。
 地上時間は現在午前七時を回ったくらい。とはいえ開店時間は午前十時なので、現在はクローズの札がかかっていた。
 あらかたガラスを拭き清め終え、曇りひとつ無くなったガラスを満足そうに見る。毎朝の日課であるガラス拭きは、来て下さるお客様への心遣いであると同時に、己の心を清めている気がするのだ。
 汚れを落とした心で作ったほうが菓子も美味しく出来上がるに違いない、というのが神楽の持論である。
「さて、今日も頑張ろう」
 呟いた神楽は店の中に入り、まだ何も並べていないガラスのショーケースの前に佇み、じっと見つめた。
 仕込みをするのも作るのも、売るのも接客もすべて彼一人で行っている。勿論、店内のレイアウトも彼の仕事だ。神楽が経営しているこの店では基本的に洋菓子を、あとは時節に関した和菓子も取り扱っていた。地上では五月の節句を超え、そろそろさっぱりとした冷菓が好まれる季節に差し掛かっていた。そのあたりを踏まえて材料を揃えてあるので、あとはいつ頃から店頭に並べるかだ。
「そろそろ水羊羹と……葛饅頭か」
 他にも並べるものをいくつか決め、神楽は厨房に入る。
 これから開店の約二時間が勝負だ。真剣な表情をした神楽は、コックコートの襟を正し、帽子を被って業務用冷蔵庫の扉を開いた。
 早朝から仕込みをして作ったスポンジや生クリーム達を使って、幾種類ものケーキを生み出す。その種類は朝の僅かな時間──ガラスを拭いている間とショーケースを眺める間に決まる。故に神楽の気分次第で陳列内容が変わる。なので、水羊羹と葛饅頭が加わるのも先程決まったばかりなのだ。
 材料をテーブルに並べた神楽は小さく息を吐いて瞳を伏せる。
「今日のお菓子も、誰かの為になりますよう」
 小さな声で祈りを捧げてから瞳を開けた神楽は、今日のお客の為の菓子を手早く作り始めた。

2010年03月07日

X-Day (9)


 一目。もう一目。編み棒の先でゆっくりと数えながら、一本の毛糸を少しずつ「形」にしていく。
 編み物というこの作業、実は彼にとって生まれて初めての経験である。
 教えてもらった通りに編み棒を動かしていくシンプルな手作業。人によっては苦痛を感じるこの作業も、彼にとって苦ではなかった。
 大地に降り注いだ雨が地面へと自然に浸透していくように、人から教わったことを素直に吸収するのは彼の気性によるものだろう。
 ──問題は、彼は指先があまり、というかかなり器用ではないということくらいか。
 もって生まれた使命のためか楽器の演奏だけは器用にこなすのだが、それ以外が絶望的に不器用なのである。
 そんなわけではじめのうちは毛糸の塊らしき物体をいくつも作っていだが、幾度も繰り返すうち流石に少しずつ慣れてきのか、一応マフラーの形をしたものが出来上がりつつある。長方形というよりも台形であるが。
「……」
 無心に編んでいた指がふと止まり、不思議そうな表情を浮かべた彼──アークは軽く首を傾げる。
 編んでいる最中、何故か時折こうして指が止まってしまう時があるのだ。
 最初はそうでもなかったのだが、完成が近づくに従って頻度が増してきている。
 理由はアーク自身にもわからない。
 指が疲れたわけでもなく、飽きたのでもなく、ましてや編み物が嫌になったということでもない。ただそれ以上編み物を続けられなくなり、胸の中心辺りが軽く締め付けられる。
 自分の意思で動かない指に戸惑うのだが、そんなときアークはすぐ近くにいる存在に目を向ける。
 そうすると、これまた何故か落ち着いて作業を再開することができるのだ。
「どうしたアーク」
「修羅」
 今もまた指が動かなくなったので治す為に見ていた存在──修羅と目が合ったアークは、小動物が身震いするように首をふるふると横に振る。
 実のところ「アーク」という名は彼の真実の名ではなく、また自身の真名をアークは知らない。
 生まれてまもなく役目を与えられ、名のないままそれを全うするだけの日々だった。もしかしたら創造者に名づけられた名があるのかもしれないが、呼ばれた記憶がないので判らない。またその場所に訪れる者も皆無だったので、名前がないことの不便さを感じたことがなかった。
 なので「アーク」は修羅によって便宜上付けられた名であるのだが、そう呼ばれるのにもすっかり慣れた。
「なんでもないのか?」
 こくん、とアークが水飲み鳥の様に小さく頷くのを見た修羅は「そうか」と微笑み返した。
 基本的にアークには「嘘をつく」という概念がないので、修羅がアークの言葉を疑うことはない。尤も、アークがその感情の正体がわからず悩むこともあるので、そういうときはしっかりと話を聞くが。
 絹を思わせるアークのさらさらな金髪をわしゃわしゃと撫で、何事か呟いた修羅が立ち上がる。
「お茶淹れてくる。アークも飲むよな?」
「飲む」
「よし、待ってろ」
「待つ」
 キッチンへと向かう修羅の後姿を見やりつつ、アークは再び動くようになった指でマフラーを編み始める。
 正直なところ、アークはバレンタインという行事にあまり関心がない。修羅とは常に一緒にいられるし、あえてわざわざプレゼントを贈る意味が判らなかったからだ。
 ただバレンタインというのは毎年好きな人に何かしらあげるものなのだ周囲に教えられ、それはアークの知識として頭に入ってる。
 なので今年も周囲で持ち上がった企画に対して何の疑いもなく首を縦に振り、ひたすらマフラーを編んでいるのだ。
「アーク」
 頭の上から聞こえた声をに反応し、アークはゆっくりと顔を上げる。
 いつの間に戻ったのか、温かい湯気をたちのぼらせた湯のみを二つ盆に乗せた修羅がアークの隣に立っていた。
 ひたすら編み物をしていたせいか時間感覚が全くなかったのだが、二人分のお茶に使う湯を沸かせる程度は経っていたらしい。
 腰を下ろした修羅が手際よく眼前のテーブルに湯のみを置いてから「どれどれ」とアークの手元を覗き込む。
 多少網目が歪な、完成間近のマフラー。クリーム色に近い淡い黄色を選んだのはアークである。どんな色の毛糸を用意して欲しいか聞かれ、目の前に出された色見本台紙から迷うことなくこの色を選んだ。
 これまた、アークにも理由はわからない。しいていうならば、直感だった。
「だいぶ進んだんだな。完成楽しみにしてる」
 編みかけのマフラーを手に嬉しそうな修羅を見て、アークはこれを作り始めてから最大の胸痛を感じた。
 体中の水分が急速に涙腺めがけて集まってくるような気がする。
 まなじりから涙が零れるのを懸命に抑えたアークは、運ばれてきたお茶を手にすることもなく暗い表情で俯いた。
「……いい」
「ん?」
「……しなくていい」
「は?」
 パチパチと数度瞬きをし、不思議そうな声で聞き返す修羅に、顔を上げたアークは物憂げな表情を向けた。
 珍しく感情を前面に押しだした──それも明らかに負の感情がありありと浮かぶアークを見て、修羅の表情が引き締まる。
 まつげは既に涙に濡れていた。涙はまだ頬に流れ落ちていないが、それも時間の問題だろう。
 修羅の親指が無造作にアークのまなじりに溜まっていた涙を掬う。
「完成、しなくていい」
 判ってしまったのだ。
 何故、自分の指が止まってしまうのか。
 気づいてしまったのだ。
 その、至極単純な理由に。
「何でそう思ったか、判るか?」
 しょげ返ったアークの頭を胸に抱き寄せた修羅が、そのまま慰めるように優しく撫でる。
 全身に修羅の体温を感じたアークは少し安心したのか、ぽつりと囁くように唇を震わせた。
「修羅の為に、出来るのが終わるから」
 これまでアークは修羅から様々なことを学びながら生活してきた。一般常識に始まり、生活のちょっとした知恵等も修羅から教えられている。
 言ってしまえば、今現在アークの生活は修羅がいてはじめて成立していると言っていい。
 では逆に今のアークが修羅に何をもたらせたかというと、アークにはこれだと明言できるものがない。
 以前アークは修羅にそれを問うたことがあるが、修羅の解答は「一緒にいられる時間が何よりのプレゼント」だった。
 普通に考えれば安心し喜んで良い筈の答えなのだが、それはアークも同じなのだ。修羅には共にいられる時間を貰っている。つまりその点において互いに与え合うことが出来ているので、より多く修羅に貰ってばかりだと、アークはそう思っているのである。
「修羅の為に、もっとしていたい」
 たかが編み物、されど編み物。相手の為に何か出来ている時間がもうすぐ終わるという事実が憂鬱の原因だった。
 指が自然と止まってしまったのも、鈍いアークの心が自覚するよりもいち早く躯が反応していたのだ。
「だから、完成……しなくて、いい」
 たどたどしくそれだけ語ると、アークはぽろぽろと大粒の涙を流し始める。
 臨界を越えていた涙腺がとうとう崩壊し、静まり返った部屋にアークのしゃくりあげる泣き声だけが響いた。
 元々アークは自己主張の薄い──というよりいっそ自我の乏しい性格なので、こうして泣くことは珍しい。そう考えれば良い傾向といえば良いことなのかもしれないが。
 熱々のお茶がすっかり冷えきった頃、ようやくアークの慟哭は静まった。
 それまで黙ってアークの肩を抱いていた修羅が静かに口を開く。
「アーク。それが完成しても、俺の為に何かしたいって思ってくれるか?」
 俯いたままアークが頷く。
「なら折角編み物覚えたんだから、もうちょいレベル上げて他の物も作ってみよう」
「修羅、に?」
 紅潮した頬を涙に濡らし、上半身を軽く痙攣させながらアークは修羅を見上げる。
 屈託のない笑みを浮かべた修羅がアークの頭に優しく手を載せた。
「勿論。あ、アークが自分のを作っても良いけど」
「修羅のがいい」
 普段ゆっくりしゃべるアークが即答する。
「そっか。じゃあまた毛糸貰わないとな」
 まだまだ、修羅に何かしていられる──修羅の言葉に安心したアークは、やっとその顔に笑顔を取り戻した。