2013年12月05日

宣戦布告――秋嵐乱心(緑高+中高))

というわけで。なんとなくの構想がありつつ、行き当たりばったり感覚で書いてきたこのシリーズですが、冬コミ原稿も無い今のうち、一応の終着点が見えてきたので頑張りたいと思います。目指せ、脱・連載終わらせられない病。ついでに『秋嵐乱心』とシリーズ名もつけました。あれ口に出して読んでみたら語呂が悪い。



というわけで改めて注意書きをさせて頂きます。

・このシリーズは全編を通して緑高・緑高前提の中高を含みます。
・物語開始時から緑高を前提としております。
・直接的な濡れ場は御座いませんが、そういう過程も含んでおります。
・着地目標は緑高のハッピーエンドですが、そこまでの道程は基本的にすれ違いシリアスです。

これまでのお話は以下になります(UP順)。

・人事不省(中谷×高尾)
・公私混同(相田景虎&中谷仁亮)
・暗中模索(緑間×高尾)
・青息独白(緑間×高尾)
・満心創痍(中谷×高尾)

時系列は以下の通りとなっております。
暗中模索→青息独白→人事不省→満心創痍→公私混同→宣戦布告


以上の内容でも問題ないという方のみ、お進み下さいませ。




 本日担当する全ての授業を終え、中谷は肩をかきこき鳴らしながら準備室に向かう。
 今日の授業は正直疲れた。
 軽い頭痛を伴う疲労に、昨夜の酒が影響しているのは明らかだった。といっても、体内に残ったアルコールの所為というわけではない。
 昨晩交わした景虎との会話が、中谷の内に抜けない棘となって、それが今も響いているのだ。
(まいったね、どうも)
 ふう、と。やや重い溜息を吐きだす。
 飲んでいるときは自分の立場を教師として定めようと、そう思った。納得もした。景虎と別れて帰宅し、シャワーを浴びて就寝しようとした。だがいざ横になっても、なかなか寝付けなかったのだ。
 瞼の裏に思い出されるのは、嵐の夜。暗闇の部室に時折瞬く稲光。僅かな光に照らされた肌。飛散する汗と、堪えきれずに眦から伝い零れた涙の塩辛さ。混じり合う互いの熱と、そして剛直で貫いた高尾の中の、言い表しようのない快楽。
 身の奥が熱に疼くのを止められない己に、中谷は苦笑するしか無かった。
(肌を合わせてしまえば情が沸く、か。その通りだよ、トラ)
 中谷にとって、高尾は久々に触れた熱だった。
 学生時代から全日本と、中谷はバスケに青年期の情熱をかけた。なら、その間バスケ一辺倒だったかと言われるとそうでもなく、恋人がいたことくらいあるし、当然ながら女性経験もある。
 今は監督業に忙しく独り身な為、そっち方面はとんとご無沙汰だった。
 とはいえ、肉欲が無くなるほど枯れてはいない。壮年期の男として、まだまだ盛りの年齢を思えば当然なのだが、それが今は、とてつもなく厄介だった。
 心情的には、まだ中谷は高尾を一人の生徒として見ている。
 なにしろ年齢が一回りも離れた相手は恋愛の対象とするには程遠いし、そもそも教師と生徒という問題もある。何より、高尾だけでなく緑間も中谷にとって大事な教え子なのだ。一時的な不和に割り込んで、二人の中を割く気は毛頭ない。
 あの夜の出来事は、高尾にとって文字通り緊急避難だった。緑間さえ知らぬままで居れば、高尾さえ知らぬ振りが出来れば、元の鞘に戻るのは容易だろう。
 だがそんな心情に反して、高尾に対して沸いた情と欲は、真逆のベクトルを指し示していた。今日一日だけで、学ランだらけの校内で高尾に似た後ろ姿を見つける度に、どきりと鼓動が跳ねた。無意識のうちに、中谷の目は高尾の姿を探していた。
 昨晩、『相手も恋人も高校生か。んなもん、その気になりゃ奪っちゃえるだろうが』と。笑って言った景虎の言葉が鼓膜に残って離れない。そして景虎の問いに対し『ああ』と。あっさり即答してしまった自分の声も。
(どうしたいのだろうね、私は)
 矛盾の解は出しておかねば、後々面倒なことになる。経験則から理解しているものの、人間の感情はそう簡単に割り切れないこともまた、中谷は解っていた。



「監督。お話があるのですが、お時間を頂いてよろしいですか」
 準備室に向かう道すがら、後ろから呼び止められた硬い声。清掃時間の喧騒に紛れていたが、振り返らずともそれが誰なのか、中谷には察することができた。
 そして、恐らくその用件も。
 四角四面の丁寧な口調は普段通り平坦に聞こえるが、波立つ感情を押し殺し切れていない。年の割にポーカーフェイスは上手いほうだと思っていたが、やはりそこは、若さ故か。
(……仕方ないね)
 いい大人が逃げるわけにもいかない。
 小さな息を吐き、心の準備をしてから中谷は身体を反転させる。そこに立って居たのは案の定、緑間だった。
 既に帰り支度を終えているのか、肩に学校指定のショルダーバッグをかけている。いつもならば当然のように緑間の隣に立っている高尾の姿は、見えなかった。
「構わないが、なんだね」
「それは――ここではなく、誰もいない場所でお願いしたいのですが」
「今からか」
「はい。出来れば」
「部活はどうする気だ」
「大坪先輩に、今日の我儘三回分で休みの許可を頂きました。後は監督の承認さえ得られれば、問題ありません」
「ふむ、大坪にね。確かに許可を得るならば、相手は私か大坪だろう。でもね緑間、私がそういうことを言っているんじゃないのは、解ってるね?」
「……すみません。監督が何を仰りたいのか、よく」
「お前が練習を休むことで、一番困るのは大坪じゃない」
「…………それは」
「ちゃんと言ってあるならば良いんだけどね」
「…………」
 暗に高尾のことを匂わせた途端、目を伏せて黙ってしまった緑間に、中谷は若干の罪悪感を覚える。
 すまないね、と心の中で謝罪する。経緯を知る側、更に当事者の一人である以上、これが意地の悪い質問な自覚はあった。
 だが話があると言われた手前、心構えをする為にも、緑間が何を自分に聞きたいのかを知っておきたい。
「……それも含めて、お話が」
 絞り出すような震える声音に、上背のある緑間を軽く見上げ、中谷は大体の察しがついた。
 恐らくだが。知っているのだ、緑間は。
 ならば中谷の選択肢は一つしかない。
「わかった、許可しよう。指導室なら今の時間空いているだろうから、先に行っていなさい。私は鍵をとってくる」
 生徒指導室ならば防音が効いている。話の内容が、万が一にも漏れる心配はない。
 わかりました、と頷いた緑間が一礼して背を向け、姿勢良く歩いていく。
 生徒指導室とは縁もゆかりも無い優等生を、私事で引っ張りこむことになるとは――中谷は苦い気持ちで緑間の後姿を見送った。



 話が長くなると踏んで、中谷は校内の自動販売機でブラック珈琲と、もう一本は日本茶を買う。緑間が汁粉好きなのは部内でも有名な話だが、流石に校内の自販機には置いていない。和食が好きと聞いているので、日本茶で問題ないだろう。
 二本の飲み物と鍵を手に生徒指導室に行くと、既に緑間がいた。待たせたね、と頷くと緑間が横にずれて場所を譲る。施錠されていた扉を開け、入るように促した。
 電灯を点けてから机に飲み物を置き、扉のところで立ち尽くしている緑間に声をかける。
「立っていないで、かけなさい」
「……はい」
 簡素なパイプ椅子に腰掛け、中谷は机に両肘を付いた。正面に座った緑間は姿勢正しく背筋を伸ばし、ただ伏せ気味の視線が物憂げな様子を伝えてくる。
(さて、どう切り出そうね)
 用があると自分を呼び止めたのは緑間の側なのに、何故か中谷は自分が緑間を呼び出した心地になっていた。
 それはとりもなおさず、中谷にも緑間と話をしたいという気持ちがあったということだ。
 だが問題は、何を話したいのか、明確な答えが未だ出ていないことだった。これを機会に、緑間と話をしながら己に折り合いをつけていくしかないかもしれない。
 暫し続いた沈黙を、先に破ったのは中谷だった。
 幾分温くなってしまった缶珈琲のプルトップに指先をかけ、かしゅっと音を立てて開ける。一口含んで口内を潤すと、ブラック珈琲の酸を含んだ苦みが舌の上に広がった。
「それで。私に話というのは何かな」
「高尾のことです」
 やはりか、と心中で零し、中谷は「ふむ」とだけ呟く。
「……驚かないのですね」
「神妙な顔で人払いを望み、私に話があるとすれば、バスケ部のスタメンに関係していると、それくらいは予想がつく」
「成る程。……では、回りくどいのは苦手なので、単刀直入に」
 ごほん、と咳払いをした緑間が顔を上げた。
 伏せていた緑間の視線が、真っ直ぐ中谷に突き刺さる。反抗とは少し違う、言葉にするならば、それは強い威嚇の視線だった。己の縄張りに踏み込む輩を追い払おうとする、雄の瞳。それでいながら、外敵の侵入に怯える獣。緑間の雰囲気は、まさにそれだった。
「貴方は、高尾を愛しているのですか」
「……それはまた随分な直球だね、緑間。質問に質問で返して悪いが、何故そんなことを?」
「先に答えて頂きたい」
「口にするには些か気恥ずかしい表現だけどね、愛しているよ。高尾は可愛い生徒だからね」
「はぐらかさないで貰えますか。それとも貴方は――愛が無くとも、人を抱ける人種なのですか」
「……ふむ。それについては、是であり否と答えよう」
 淡々とした中谷の返答に、緑間の顔が嫌悪に歪む。だがそれは真実だ。あの時点で、中谷の中で明確に感情の正体を掴みきれていなかった以上、少なくとも高尾を抱いたのは愛しているからではない。ただ、情はあった。欲も感じた。それを広義的にも愛と呼ぶかは微妙なところだ。
 そしてこの問いは、中谷の推察を裏付ける。やはり緑間はあの夜のことを知っているのだ。
「……貴方がそんな方だとは思ってもいませんでした。――ッ、まさか、あれは合意の上ではなかったとでもっ!」
「落ち着きなさい、緑間。そうか、お前は高尾から話を聞いたのではないんだね」
 激昂して勢いよく立ち上がった緑間を、中谷は目線で諌める。が、さしたる効果はなく、肩を怒らせ瞼に緋の膜が降りた緑間が、再び両手の平をばんっと机に打ち付けた。
「そんなことはどうだっていいのだよ! もし高尾に行為を強いたというならば、俺は貴方を許せない……!」
「いいから落ち着けと言っているだろう。座れ、緑間」
 目上の人間に対し敬語が剥がれ、頭に血の昇った緑間に、滅多にしない命令口調で強制力を込める。
 ハッと我に返った緑間が、倒れた椅子を戻して座り直した。小さな声で「すみません」と謝罪が入るが、口端が曲がり、一分も納得していないのは明らかだ。
 こんな表情の緑間を見るのは初めてだった。泰然自若で落ち着き払った、いっそ傲慢ともとれる大人びた余裕の全てを、いったいどこに忘れてきたのか。
 怒りと焦燥を滲ませた緑間は高校生という年相応に見えて、場違いと解っているが、中谷はその様子に好ましさすら感じた。
「高尾はあの時、緑間が行ってしまったと言っていたが。まだ帰っていなかったのか」
「……帰ろうとして、けれど結局帰れなかったので、部室に戻ろうと……そうしたら、貴方と高尾が居て」
「ふむ。合点がいった。取り敢えず誤解しないで欲しいが、先ずあれは合意の上での行為だ。私は決して、高尾に強要などしていない」
「そう、でしたか。それは……」
 良かった、とは素直に言えないのだろう。強要ではない、それ即ち高尾が行為を望んだという事実に、緑間が改めて衝撃を受けているのは解るが、経緯を知って貰わないと話が進まない。
「あの日、私は遅くまで仕事をしていてね。鍵の返却がまだなのに気付いたのが遅れた。緑間、お前が鍵当番なのは判っていたから、未だ居残って練習しているのかと。緑間が居れば高尾も居るだろうと、ならば外は台風で風雨も酷かったし、お前達を車で送ると言う為に部室に行ったんだよ。そうしたら、どうしてか電気の消えた部室に高尾が一人、残っていた。随分と憔悴した様子でね」
「…………」
「これは私の持論だけれど、教師が生徒のプライバシーを詮索すべきではない。相談を受ける分には、その限りではないけれどね。だから高尾が酷く落ち込んだ様子を見せても、詳しくは聞くまいと思っていた。だから軽く聞くに留めるつもりだったのだが、高尾から話を切り出してきた。『自分では無いほうが良い』という一言から、緑間、お前と口論になったと」
「…………ええ」
「そして高尾は自分が悪いのだと己を責めた。今後に支障が出るならばスタメンから外してくれと、私に申し出たよ」
「――っ、何故!」
「無論、否定した。高尾の力は秀徳に必要不可欠だと。そうしたら高尾は、もしお前が自分と組むことを嫌がったらと言っていた」
「馬鹿な。俺は、そんなこと一言も」
「時に言葉は、意図の外を以って受け取られる。緑間、お前が対話に器用で無いのは知っているよ。きっと高尾は私以上にお前を理解しているだろう。だがそれでも、誤解させるような発言がなかったと言い切れるか?」
「それは……言い切れ、ません」
「そのつもりはなかったのだろうが、結果的に高尾は、お前に突き放されたのだと受け取った。余程ショックだったのだろうね。……自己を否定された人間は、肯定を求める。藁があれば縋る。例えその場限りでも安らぎを、慰めを欲する。それは誰にも責められない、自然な感情だ」
「つまり――俺の所為で高尾は、貴方に、身を」
 流石に直接的な表現は避けたが、聡い緑間は中谷の言わんとすることを理解したらしい。
 この世の終わりを思わせる悲愴な顔で、気勢の削がれた緑間が、愕然と唇を戦慄かせた。
 一概に緑間の所為とは言えない。そもそも口論の発端は高尾の発言だからだ。矢を放ったのはあくまで高尾の側だろうと中谷は思う。だが決定打を、高尾の心を穿ったのは間違いなく緑間だ。どちらの所為とも言い難い。
 ここに至って、自分が罪悪感を抱いていないのも、中谷には不思議だった。幾ら誘われた側とはいえ、己は言ってみれば二人に割って入った間男の立場であるはずなのに、何故だか緑間から相談を受けている気分になってくる。
 とりあえず、誰が悪いのかというのは、己が明言することではない。そう判断した中谷は、緑間の問いにはあえて答えず話を続けた。
「さて。あの夜の経緯は以上だが、最初の質問に戻ろう。緑間、私に高尾を愛しているかと聞いて、いったいどうする?」
「……確認を」
「確認とは?」
「もし行為が合意だろうと、貴方が高尾を愛していないなら」
「ふむ。私にその気が、高尾を奪う気が有るか否かを知りたかったというわけか」
 安心が欲しかったか、と続けた中谷の声に、緑間の顔があからさまに強張った。
「……その通りです。ここまで話せばお判りでしょうが、俺と高尾は……付き合っています。その上でもう一度聞きますが、貴方は高尾を愛しているのですか」
「さて。――もしも私がそうだと答えたところで、お前はどうする? 私が高尾をどう思っていようと、肝心なのは高尾の気持ちだろう」
「高尾は……もう、俺のことなど、見限っているでしょう。土日も連絡がつきませんでしたし、今日は、高尾は学校を休んでいます。風邪と聞いていますが、恐らくは俺を避けているのかと」
 普段の強気はコートに置いてきてしまったのだろうか。目の前に居るのは、矜持の高い天才バスケプレイヤーではない。我を忘れるほどの恋をして、それが破れそうになって惑っている、覇気を無くした十六歳の少年だった。身長百九十を越す緑間に、少年という表現はこの上なく似合わないが。
「衝撃的な場面に遭って、ショックは勿論ありました。見なかったことにするのが一番だと判っていても、何時までもあの光景が消えてくれなかった。だから最初の留守電には、口論のことを謝ろうと思ったはずなのに、貴方とのことを問い詰めるような文言を残してしまった。けれどその後、高尾は携帯の電源を切ってしまったらしく、メールを送っても梨のつぶてで」
「……それは当然だろうね」
「一向に連絡が取れず、ならば貴方に事情を聞くしかないと、時間を頂いた次第です。貴方にその気が無いのであれば、俺は……まだ、高尾を失わずに済むかもしれない」
 緑間は、果たして気付いているのだろうか。こうして自分と話している時間は、悪手とまでは言わないが、決して好手ではないことに。
 何故なら、練習を休む許可を得たならば、その足で高尾の家に向かうべきだったのだ。ましてや問い詰める言葉を留守電に入れたなら尚更だ。どんなメッセージを残したかは知らないが、緑間に知られたという事実を前に、高尾の思考が負のスパイラルに陥っているのが、中谷には容易に想像出来た。このままでは、高尾の心は抜け出せない迷宮と化すだろう。そこから本心を連れ出すのは、時間を置けば置くほど困難になる。 
 確かに中谷が本気でかかれば高尾を奪うことは可能だ。ただでさえ光景を目の当たりにし、緑間の抱いたその不安は理解出来る。だが古来、雨降って地固まるの諺が示す通り、障害を乗り越え結び直された絆は、よりいっそう固くなる。そうなれば中谷の付け入る隙も無くなるだろう。
 今の緑間は余裕を無くし、優先順位を間違えている。あの夜のことを知ってしまったうえ、知らぬ振りの腹芸が不可能ならば、あとはぶつかるしかないのだ。
(怖いのは解るけれどね、緑間。それで一番大切な人を失っては本末転倒だ。……もっとも、渦中にいる時は正解など解らない。失ってから時を経て、当時を振り返った時に、ようやくどうすべきだったかを理解するものだがね)
 そうして己自身も色々と失ってきた過去を思い返し、中谷は深く澱んだ息を吐き出した。
 思慮分別のある大人としては、後悔のないよう、二人を導いてやるべきだ。絡まった糸を解きほぐし、間違いと誤解を正すのが教育者のあるべき姿だろう。
 だが。こんな風に、あくまで一個の雄として対峙されれば、中谷とて刺激される感情がある。あの夜、腕の中で跳ねる高尾が無意識に呼んだ緑間の名を、強引に塞ぎたくなった衝動が、今更のように思い出された。
 ――否。それ自体も言い訳に過ぎないのかもしれない。一回り以上も年下の生徒、しかも同性を欲する心の理由を、緑間に作っているだけなのを、中谷はどこかで自覚していた。
「……成る程。考えはよく判った。では緑間、遅くなったけれど、お前の問いに答えよう」
 俯き加減だった緑間が、ハッと顔を上げた。その真剣な瞳に、改めて緑間からの、高尾への想いの深さを悟る。
 この場を凌ぎ、誤魔化すのは簡単だ。けれど、今の緑間に嘘や誤魔化しは通用しないだろう。
 小さく深呼吸をしてから、中谷は明朗な口調で素直な心中を口にした。
「高尾を抱いたとき、確かに私には明確な感情が無かった。けれど、少なくとも今、私は高尾を愛しいと思っているよ」
「それは」
「無論。生徒としてではなく、だ。叶うならば、この手に今一度と思うくらいにね。……さて、緑間。お前はどうする?」
 先回りして緑間の問いを封じ、逆に問いを切り込むと、中谷の耳に息を飲む音が聞こえた。
「私はまだこれから仕事があるが、夕方にでも高尾を訪ねるつもりだ。風邪だというなら、見舞いがてら病状の確認が要るからね」
「……それは、監督としての訪問ですか」
「それを聞く必要があるかな、緑間」
「――いえ。愚問でした」
 がたん、と緑間が立ち上がる。まだ迷いはあるものの、どこか吹っ切れたような表情が浮かんでいた。
「お話し頂きありがとうございました。それでは、これで失礼させて頂きます」
 深々と一礼をし、中谷が返事をする間も無く、緑間は忙しなく指導室を出て行った。
 一息ついた心地で中谷はゆるりと立ち上がり、指導室の窓に寄って外を眺めた。程なくして、脇目も振らず、正門に向かって走る長身の後ろ姿が視界に入る。
「頑張りなさい、緑間」
 せっかく先行権を譲ったのだから、と中谷は口元を緩めて独りごちる。
 先程のあれは、緑間に対するエールであり、挑発でもあった。矛盾しているのは承知の上だ。二人の中が上手くいっても、溝が深まった結果高尾がこの手に落ちてきても。正直に言って、今の中谷にとっては、どちらに転がろうと構わなかった。
 教師として、男として。感情の天秤が釣り合っているからこそ、そう思えた。
 但し――天秤が振り切れる程の愛情を自覚した時は、恐らくその限りではないだろう。
「さてと。仕事を終わらせねばな」
 両手を天井に向け、中谷は躯を伸ばす。
 本日分の書類を整理し、少テストの採点をし、バスケ部の鍵を大坪に任せて校舎を出るには、恐らくあと、約二時間ほどは余裕でかかる。それまでに緑間が高尾との決着を付けられるか否か。
 若いうちは融通が利かないものだ。ただの一度だろうと、過ちを許せなければ二人に未来はない。
 過ちの当事者が言うのも如何なものかもしれないが。
 教師としての自分は、訪ねた高尾が笑顔で迎えてくれるか、それとも緑間と共に出迎えられるかを望んでいる。
 けれどもしも。余計に沈んだ様子の高尾が居たならば、男としての自分が顔を覗かせるだろう。次に高尾を手にする機会があったなら、今度はその手を離してやる自信はない。
 窓を開けて西空に目を遣ると、台風一過したばかりなのに、黒い雲が立ち込めている。そういえばまた新しい台風が近づいていて、今夜半には天候が崩れると、おは朝の天気予報が言っていたのを思い出す。
 暗雲は再び嵐を呼ぶのだろうか。それとも凝った澱みを吹き飛ばす、天つ風となり得るのだろうか。
「……いずれにしても、賽は投げられた」
 ぽつり、生活指導室に零れた中谷の声もまた、窓を揺らした風に掻き消えた。
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