2010年08月25日

ピラニア。

 ちょいと躯を半回転ほどひねるだけで一周が終わっちまう狭い水槽。やけに息のしやすい透き通った水。俺には理解不能な、はっきりいって泳ぐのに邪魔なキラキラ光る作り物。
 それが今、俺の置かれている世界だった。
 住み心地は多分、いいんだろう。多分っていうのはあくまで一般的な評価だ。作り物は邪魔だが定期的に掃除もされるし、酸素もふんだんに供給されているし、暑くもなければ寒くもない。
 だが呼吸をする俺のえらが、そして俺の肌が本能的に訴える。俺が欲しているのは、もっと視界の濁った有機物がいっぱいの肌触りがぬるっとした──あまぞんってところの川水なんだってことを。
 あまぞんの川水こそが、俺が本来住むべき場所なのだ。
 ……と力説してみたものの、実際そこがどんなところなのか、俺自身は知らない。
 ここに買われて来る前にいた店で先輩から聞いた話だ。先輩も、その前にいた先輩に聞いたっていうんだから、情報の大本はずっとずっと遠いのかもしれない。
 だが、情報の元が誰なのかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
 ピラニアという種である俺の中に流れる血が、この清く済んで浄化され続けるこの水は、棲むにはいまいちだと叫んでる理由がわかった、それだけでいい。
 そう、所詮俺は人間が愛玩するために買われてきた一匹のピラニアに過ぎない。
 環境による文句など言ったところで届かず理解もされず、毎日を生きること自体この家に住む人間の手に委ねられているわけだ。
 幾ら叫んだからって、見たことも棲んだこともない心の故郷であるあまぞんとやらに帰れるわけでもなく、たった一匹狭い水槽の中で魚生を終える孤独が癒されるわけでもないのだから。
 ただ、たまには愚痴を言いたくなるときもある。誰に聞いてもらえるわけじゃなくてもな。


 そうやって飼われている俺には、毎日一回ごはんの時間がやってくる。
 ここの家の人間は俺の好きなものを知っているようで、生きたままの魚が俺のごはんとして放り込まれるのだ。
 弱ってたり活きが良かったり、大きかったり小さかったり、美味かったり不味かったり。魚の種類も時々、特に季節によって変わる。
 勿論それらには文句の一言もつけようがない。
 今日もぽちゃりとごはんという名の魚が水音を立てて落ちてきた。
 そのごはんは、いつも放り込まれるごはんと違った──店にいたときに見たことがある。確か、金魚って奴だ。
 目にも鮮やかな紅っぽい金色をしたその金魚は、俺の周囲をびくびくおどおどしながら泳ぐ。
 これから俺に食われることは判っているようで、いかにも魚生を諦めましたって表情だ。
 そんな金魚を見ていて俺は、つい言ってしまった。
 別にお前を食う気はない──って。
 深い理由は、あるようでない。
 ただ、なんていうか。このまま一匹で生きて、いつか死ぬんだろうかって思ったら、目の前にいるこいつを口に放り込む気分じゃなくなったというか。
 それだけなんだから気にしないで生きてりゃ良いじゃないか。
 明日にはまた気が変わってお前を食ってるかもしれないんだから、少しでも長く生きてることにでも感謝しておけよ、と。
 不可解ながらもこわごわ頷くその金魚を見て、俺の中にちょいと、いやかなり変な感覚がわき上がっていた。
 今まで平気で何匹もごはんを食ってきて、そいつらと会話するなんて考えもしてなかった。だってそんなことをする必要がどこにある?
 それがどうだ。
 ほんの気まぐれで食わなかった「ごはん」に声をかけちまったことで、こいつはもう俺の中で「ごはん」じゃなくなっちまった。 
 まだ食う気にはなれないが、いざとなったときの非常食とでも考えればいい──俺は無理やり自分をそう納得させた。

 
 翌日、俺の住む水槽に新しいごはんはこなかった。
 どうやらこの家の人間は、俺がこいつを食わなかった理由を単に腹が減ってなかったからだと思ったらしい。
 腹が減ってるかどうかと聞かれれば、そりゃあ丸一日何も食ってないのだから減ってるに決まってる。
 食わなきゃ死ぬのは世界の法則だ。栄養がなければ体を維持できない。
 んなこた判ってる。
 だがどうしても俺はこのちっぽけな金魚を食う気になれなかった。
 ごはんとして放り込まれた昨日は終始びくびくしながら水槽の端っこにいたくせに、今日になって大分慣れたのか、俺の様子を伺うようにちょこまか泳ぐ。
 それだけなら多少目障りではあるものの、放っておいてもそこまで害はないんだが、この金魚は俺が最も嫌う性格をしていたらしい。
 つまり、おせっかいだ。
 こわごわしながらも、まだ僕を食べないんですかお腹は空いてないんですか、なんてことを、俺が答えるまで何度も何度も聞いてくる。
 何でお前が俺の心配をしてるんだ。お前は食われる立場で、俺は食う立場なんだ。
 間抜けな金魚にイライラした俺は不機嫌を隠さないで答えてやった。
 まだお前を食う気になれないだけだってな。
 理由も聞かれたけど、そんなん知るかと言ってやった。
 おどおどしながらも言いたいことだけは言う金魚にむしゃくしゃしたので、腹が減ってるかどうかまでは答えてやらなかった。
 余計なことをしゃべったり動いたりすると、無駄に腹が減る。
 だから俺は、美味しそうな匂いをぷんぷんさせながら色々話しかけてくる金魚のことをひたすら無視してじっとしていた。
 
 
 次の日も、その次の日も、俺の住む水槽に新しいごはんはこなかった。
 この家の人間は、どうあっても俺にこいつを食えといっているらしい。
 絶食三日目ともなると、流石に動きも鈍くなる。考えも鈍くなる。こんな状態から抜け出す為だったら、さっさとこいつを食っちまえばいい。
 ばりばりに骨から尻尾まで噛み砕いて、救難信号を発している俺の胃袋を満たせばいい。
 なのにだ。
 頭ではわかっちゃいるのに、俺の牙はこいつを食みたくないといっていた。
 今日も金魚は俺の様子を伺うように、周りをうろちょろ泳いでいた。お前は臭うから俺の鼻先で泳ぐなとだけ言うと、金魚は俺の隣でおとなしくなった。
 これで目の前で空腹を煽る匂いをちらつかされずに済む、とホッとしたのも束の間。
 そのうち、ぽつりぽつりと金魚が独り言のように身の上話を始めた。  
 こいつは屋台ってとこの出身らしい。
 俺みたいに店で買ってこられたんじゃなく、人間たちの余興で連れてこられたんだと。
 金魚いわく、そこで連れてこられたのはラッキーだと思ったとさ。なんでかって、そこで掬って貰わなかったら餌になる運命が待ってるって判ってたからってな。
 だが連れてこられたここでも、結局は餌になったわけだ。弱肉強食が世の常とはいえ酷い魚生だなと心の中で思っていたら、金魚は何でか笑いやがった。
「僕はここに連れてこられて幸せです。だってピラニアさんは僕に時間をくれました」
 ぽかんと開いた口がふさがらない。俺には金魚の言葉の意味が理解できなかった。
 何を馬鹿なこと言ってるんだこいつは。俺は、俺は気紛れでお前を食わなかっただけだ。
 お前のために食わなかったわけじゃない。俺の都合なんだ。
 大体、ちょっとばかり時間があったからって何が変わる。結局お前は俺に食われる運命にあるんだぞと威嚇してやったのに、金魚はやっぱり笑いやがった。
「時間があったから、僕はピラニアさんを好きになれたんです。誰かのごはんになるなら、好きな相手のが嬉しいです。だから、僕は幸せです」
 好き──それは何だ? どういう意味なんだ? 
 金魚の言葉に俺は混乱した。
「好きな人が苦しむのもいやです。だから……さようなら、ピラニアさん。幸せをくれて、ありがとう」
 俺が金魚の言葉の意味を理解する間もなく金魚は、開いたまま塞がっていなかった俺の口めがけて勢いよく飛び込んだ。
 ──いい匂いが俺の口中に広がった。


 今日もごはんの時間がやってくる。
 水槽にが放り込まれてぽちゃんと落ちてきたそれは、小さく切り取られた肉だ。
 元は俺と同じか、それよりでっかかったんだろうと思われる肉を食みながら、俺は隣で泳ぐ相棒に目を向けた。
 同時に放り込まれた金魚用のごはんを小さな口で一生懸命ついばんでいる。
 まったく、いつまでたってもごはんを食うのがうまくならない奴だ。
 あの日、俺はこいつを食えなかった。口に飛び込んできた、いい匂いのするこいつを食みたくて食みたくて仕方なくて、胃袋はこいつが欲しいって叫んでいたけど、それでも食いたくない気分が勝っちまった。
 あれ以来、この家の人間はごはんを変えた。俺用にはすでに死んで切り取られた肉と、金魚用にはちっこい粒粒みたいなごはんを放り込むようになったのだ。
「お腹いっぱいに足りなかったら、いつでも僕を食べていいですからね」
 ふざけたことを言ってくれる。俺にもうこいつを食うなんて出きるわけないってのに。それをこいつもわかってるくせに。
 この狭い水槽が、もっと狭くなったことを俺が喜んでるのを知ってるくせに。
 いけしゃあしゃあと笑顔で言う相棒に、俺は無言で尾びれアタックをかましてやった。