2010年06月01日

メガネスーツ

「おはようございます貎珂(げいか)。ちょっとつきあってくれませんか?」
「……あん? え、俺?」
「ええ」
 東京、代々木。駅周辺の喧騒から数歩中に入った、閑静な住宅街の一角にあるその家を訪れた客は、玄関先に現れた家人の姿を見るなり、見る者に有無を言わせない穏やかな笑みを浮かべた。
 と言っても突然の来客を迎えた彼──貎珂は、正確にはここの住人ではなく、名義はとある有名アーティストとなっているのだが。
 来客の少年──リュウは、東京は今日も朝からじめつく暑さだというのに、汗ひとつ流さない涼しげな顔で、さらりと流れる髪を耳にかき上げた。実年齢は確かに中学三年生の筈なのだが、白のカッターシャツに麻のサマージャケットを羽織り、スカイブルーのネクタイを締めたその姿は、年齢を忘れるほど堂にいっている。
 返答が是であることがさも当然のように頷いてから、貎珂の返事を待たずに「では行きましょう」と貎珂の腕を取る。
 状況を飲み込めない貎珂が空いた手でリュウの肩を掴み、そのまま出発しかねないリュウの躯を引き留めた。
「ちょっと待てリュウ。今から行くのか?」
「ええ、今から」
 だからなんですか、とリュウは頷く。
「格好なら問題ないでしょう。それで外に出れば、十人中十人が振り返ることを保証しますよ」
「そりゃ俺なら当然だし。って問題はそこじゃねえから」
 リュウの指摘どおり、現在貎珂がしている格好は、外出をするのに『一応』問題はない。
 黒のスーツに赤のネクタイ。一見モデルかと見まごう整った顔立ちをした、おまけに長身でスタイルの良い金髪碧眼の青年がそんな格好をして歩けば──十中八九、歩いている人は振り返るだろう。ただ、衆目を引くのが嫌なわけではないが、一々声をかけてくる人間にかかずらって足を止められるのが面倒くさいのだ。
 リュウの肩から手を離し、かけていた伊達メガネを外して弄びながら貎珂は肩をすくめた。
「順序だてて話せって。そしたら、理由によっちゃ付き合ってやるから」
「簡単なことです。俺は出かけたい、そして貴方に付き合って欲しい。それ以外に説明の必要が?」
「アウルは知ってんのか」
「ええ。最初は自分が行くと言っていましたが、俺が付き合って欲しいのはあくまで貎珂だと言ったらおとなしく見送ってくれましたよ」
「……お前なあ」
 実際にその様子を見ていないかかわらず、二人のやりとりがまざまざと目に浮かんだ貎珂は片手で頭を抱える。
 仮にも恋人──アウルに対してその物言いはだろう。どうせまた何か企んでるのか知らないが、普段自分からあまり言い出せないあのアウルが一旦は一緒に行きたいと口に出して言えたのに、それをあっさり拒否するとは。しかも理由を教えずに。
 今頃どん底の更に底あたりまで落ち込んでいるだろうアウルを思い、他人事ながら貎珂は同情を寄せる。
「何か言いたそうですね」
「判ってんならアウルと行ってこいよ」
「貴方こそ判っていませんね、貎珂。俺は『貴方に付き合って欲しい』んです」
「だからその理由を言えっての」
「目的地に着いたら話します」
 頑として今は言いたくない──リュウの表情がそう語っていた。
 朝からなんでこんな面倒なことに、と貎珂は内心愚痴をこぼす。アウルもリュウも大事な仲間ではあるが、二人の間に立たされるのは色々とパワーがいるのだ。
 自分から何かを解決しようと立つならともかく、今回は一方的に巻き込まれているのである。少々の愚痴も仕方ない。
「向こうでも言えるなら、ここでだって良いだろーが。それともなにか、戒や蒼灯に聞かれちゃ不味いのか?」
 部屋の奥でブレックファーストをとっている二人に聞かれたくないなら仕方ないけどと貎珂は頭をかく。
 あまりに困り果てた様子の貎珂を見て流石に考えを改めたのか、リュウが重い口を開いた。
「確かに、あまり聞かれたいないようではありませんが、別段聞かれて困る内容でもありません」
「んじゃなんだよ」
 子供のように首を傾げ、貎珂は頭ひとつ近く身長差のあるリュウの顔を覗き込んで、唇に耳を寄せた。
 たっぷり一分ほどの沈黙を経て、ようやくリュウが口を割る。
「……そのスーツと伊達眼鏡を買った店に連れて行って欲しいんです。もしくは、似たデザインが置いてある店に」
「……は?」
 姿勢を正した貎珂の瞳に、顔色一つ変えないで、僅かに視線をそらしながら話を続けるリュウの姿が映った。
「ですから、貴方に付き合っていただきたいんです。物を渡す当人など連れて行けるはずも無いでしょう。それが理由です。さ、この答えでご満足ご納得いただけたならさっさと行きませんか。時間を無駄にしたくは無いので」
 早口でそこまで言ったリュウが、呼吸を整えてから貎珂を見上げる。
 今朝、一番最初に玄関で見た、作った笑み。
 だがその笑みの裏側に見え隠れする感情を敏感に読み取った貎珂は、にやりと口角を上げた。
「オーケイ、いいぜ。すぐに支度するから待ってな。とびっきりの服選ぼうぜ」
「……軽口は結構ですから、どうぞ支度を」
「おう。んじゃ軽く鏡見て財布取ってくる」
 相変わらず素直じゃない──それなら一肌脱いでやろうと、貎珂は心の中で二人の間に立つ。
 それは貎珂にとって既に、決して面倒なことではなかった。