2010年03月03日

X-Day (7)

「痛っ……」
 紅い血が白く細い指先から溢れ、つうっと伝い落ちる。傷自体はそんなに深くはないのだが、細い血管が多く集まっている指はちょっとした怪我でもそこそこ出血してしまうのだ。
 手にしていた包丁を慌ててまな板に置き、彼──桜(ロウ)はとりあえずの応急処置に切ってしまった人差し指をぱくっと銜えた。
 ほんのりと甘い鉄の味が口内に広がる。自分から流れた血を再び自分の中に取り込んでいる気がして、桜は少々不思議な感覚を覚えていた。
 彼の嗜好として血生臭いもの、例えば生のレバーやステーキのレアに代表されるような食事はあまり得意ではなかったのだが、今口内に広がる血の味は別段嫌な感じがしないのが不思議なのだ。
 舌先で傷口を軽く舐めると、ピリッとした痛みが指先を震わせた。
 キッチン台に寄りかかり暫く奏そうしていたが、数分も経てば流石に血は止まったらしく、こんなこともあろうかと用意しておいた絆創膏を傷口に貼る。
 ついでに、と乱れてしまった髪を直す為、一旦髪留めを外した。虹のような不思議なグラデーションがかかった長い髪がさらりと広がり、それを再び一つにまとめた。
 いつもならな綺麗に結い上げてくれる人が傍にいるのだが、生憎と今は一人。桜では後ろにまとめるのが精一杯である。
「ふう」
 これで作業が再開できる、と桜は気合をいれて再び包丁を手にする。
 作っていたのは、今年のバレンタインに贈るチョコレート。少々難易度は高いが、桜は手作りトリュフに挑戦してみようと思い立った。
 レシピは既に調達済み。プロのパティシェが協力してくれて、素人の桜でも簡単に作れるようにと作業をかなり簡略化したものを貰ったのだ。
 持つべきものは技能持ちの仲間である──の、筈だったのだが。
 板状のクーベルチュールチョコレートを刻むところ位は出来る、と頑張ってみた結果がこの傷だった。
 ちなみにこれで使用した絆創膏は三枚目。つまり通算三つ目の怪我だ。
 製菓用板チョコは厚さも硬さもあり、包丁で削っていくのが基本であるが、桜はお世辞にも包丁さばきが上手いとはいえない。
 根本的に、桜はあまり器用ではないのだ。
 以前レース編み等を経験していたおかげか、プレゼントのマフラーはなんとか完成させることが出来た。相手の髪色に合わせた深い緑の毛糸を使ったマフラーは、多少目が飛んでしまっているが、使う分には一応問題ない。これは既にラッピングを終え、渡すだけとなっている。
 が、肝心のチョコがこの調子ではどうしようもない。
「……」
 悔しさと悲しさのあまり、桜の視界が涙で歪んだ。
 心から尊敬し愛情を捧げている人に手作りのチョコレートをあげたいだけなのに、それすらまともにこなせない自分が歯がゆかった。
 既に削られているチョコを用意してもらうのが早いのは判っているのだが、少しでも多く想いを込めたい桜にとってその選択肢は考えられなかった。
 意を決し、傍から見ればいっそ悲壮なほどの表情を浮かべた桜は、恐る恐る包丁をチョコレートに添える。
 全身を緊張させた桜が息を呑んだそのとき、ふと背後に気配が顕現した。
「桜」
「ひゃっ!」
「……そんな驚かなくても」
 後ろから声をかけたんだから驚かせても仕方ないか、と笑うのは様子を見に来た戒だった。今日はバレンタイン前日、企画者として全員の様子を見て回っているのだろう。
 誇張ではなく驚きのあまり飛び上がりかけた桜が、四つ目の怪我を負わなかったのは奇跡といっても過言ではないだろう。
「あ、いえ、そのすみません」
「ううん。俺も悪かったし……って、やっぱりあのクーベルチュールじゃきつそうだね」
 桜の指、絆創膏、まな板のうえのほぼ削られていない製菓用チョコと順々に視線を運び、状況を一瞬で把握したらしい戒がうんうんと頷く。
 自らの稚拙さを言い当てられた気がして、桜は羞恥に頬を染めた。
 下を向いてしまった桜の頬に涙が伝っているのを見た戒が、すっかり気落ちして下がってしまった桜の肩に手を置いた。
「俺も、忙しすぎてつい気が回らなかったんだ。幾ら桜が頑張りたいって言ってても、そこはちゃんと『こっちのがいいよ』って言うべきだったんだ。ごめん」
 ふるふると、桜は俯いたまま首を横に振る。
「ね、桜。少しでも多くの工程をこなして、風龍へ沢山想いを込めたいっていうその気持ちも、用意されたものを使うんじゃ嫌だってのもわかるよ」
 俺自身が凝り性だからね、と戒が困ったような苦笑いを浮かべた。
「でもね。その為に桜の指に怪我が増えていくのを風龍が知ったら、どっちのが良いって言うと思う?」
 核心を突いた戒の言葉に、それまで俯いていた桜はハッとして顔を上げた。
「きっ……と、悲しいと、仰います……」
 優しいあの方に心配をかけたくない──涙で詰まってしまっている喉からしぼりだすように、桜はたどたどしく言葉を発する。
 そうだね、と戒が慰めるように桜の肩を撫でた。
「確かに削ることは出来なかったかもしれないけど、そこから先テンパリングからは桜がするんだし、どんな風に作ったって込める愛情の大きさは変わらない。だろ?」
 泣きじゃくる桜の手に、戒から小さな袋がまとめて手渡される。半透明のそれに入っているのは、既に削られた幾種類かのチョコレートだった。
「じゃ、はい。これ使って、美味しいトリュフで風龍をびっくりさせてあげるといいよ」
「ありがとうございますっ……」
「他に何か必要になったら、呼んでくれれば何かしら対処するから。我慢禁止だからね」
「はいっ」
 じゃあまた、と言ってその場から戒の姿が消える。恐らく、次の巡回先に向かったのだろう。
 手にしたチョコレートの袋たち。これらを使っても、想いのこもったトリュフは作れる。些細な意地を張って、大好きな彼の人に──既に負ってしまった怪我は隠しようがないので仕方ないが、これ以上余計な心配をかけることもない。
 後はすべて、桜次第なのだ。戒の言うとおり、込める愛情の大きさが変わるわけではない。
「……頑張ります。だから、待っていてください……風龍殿」
 相手の名を呼ぶだけで心が温かくなる──微笑んだ桜は戒が消えた辺りに向かって一礼し、トリュフ作りを再開した。