2010年02月27日

X-Day (6)

 去年のバレンタインも、その前のバレンタインも、すごくすごく美味しかった。今年のお菓子もきっと美味しいだろうから、俺も頑張って美味しいお菓子を作らなきゃ。
 でも、何を作るか何をあげるとか、内緒にしたりしない。
 だってそんな事をしたら寂しい。内緒にしている間、傍に居られない。作るときにも一緒にいたい。離れていたくない。
 そんなのはいやだから、今年もバレンタインは、美味しいお菓子を二人で作って交換しあうんだ。


「キール」
「なに? 翼空」
 くしゃり、とキールの大きな手が、翼空の柔らかな髪を優しく撫でる。
 大好きな従兄弟の唇が自分の名を響かせたのを聞いて、翼空はこのうえなく幸せそうに微笑んだ。
「ううん、キールって呼びたかっただけ。あと、バレンタインが近いなあって。なんとなく思った」
「ああ。そうだね」
 温かみのあるカーペットが敷かれた床に座り込んでいた翼空は、趣味のよさを感じさせるロッキングチェアへ優雅に腰掛けているキールの膝に頭を乗せて軽く体重を寄せる。
「温かい、キール」
「翼空も温かいよ」
 手を伸ばしたキールが翼空の頬をくすぐるように撫でた。
 相手、キールの体温が伝わってくること──それは、翼空にとって充足する瞬間であり、またそれは翼空にとって、なければ生きていけない要素だった。
 閉塞したこの空間に来て以来、もう何年もこの最愛の従兄弟以外と口をきいた覚えがない。初期には自分を診てくれる医師も居たし、その他にもよく覚えていないだけでもしかしたら誰かとあったような気がしなくもない。
 が、それは翼空にとって、とりたてて重要な事柄ではない。肝要なのは、翼空の手の届くところにキールが居るということなのだから。
「くすぐったい」
「いや?」
「ううん。そんなことない、キール」
 どこかしらキールに触れていたい──それは生存本能に近い感情かもしれない。
 多少ならば問題はないのだが、長い間触れることが出来ないと、水を奪われた魚のように飢えて飢えてキールを求めてしまうのだ。
 翼空にとってキールの居ない、キールと離れている時間は、本来の数十倍にも感じられるのである。
「キール……キールが大好きだよ」
「うん。俺も翼空が大好きだよ」
 温かいキールの膝に頬を摺り寄せながら、翼空は胸のうちにふと浮かんだ、爪の先にも満たない小さな不安を見なかったことにして微笑んだ。
 声の調子から何かを感じたのか、キールが翼空の顔を覗き込む。
「翼空……?」
「キール」
「何か思っているなら、聞きたい」
 キールに嘘をつきたくない──そう思った翼空は己の中に答えを求め、キールの膝に顔を伏せた。
 そうして、先程見なかった事にした不安をゆっくりと引きずり出す。
 翼空の中に漫然と在り続ける考え──それは、いつまでもこの閉じた世界にいてはいけないのではないかと、そう囁き掛ける自分の存在を感じる時があることだった。
 人には課せられた役割というものがあり、以前に戒められた枷からは逃れたとはいえ、新たな指標も見出さず、ただ安穏とここで暮らし続けてもいいのだろうかと。
 ただその考えが胡散霧消する原因は、とある恐怖が勝るからである。
 それは、閉じた世界を開放することによって、キールが自分を置いてどこかに行ってしまうのではないかという懸念だった。
 いつからここまで依存してしまったのか、それは翼空本人にもわからないが、翼空は最早キールが居なければ生きていけない。
 だがキールはどうだろうか。少なくとも翼空の目からみてキールは自立した一人の青年であり、元来社交的な性格であることも知っている。端正な容姿は衆人の耳目を集め、周囲が放っておかないだろう。
 その中から翼空以外の大切な人を見つけてしまうかもしれないのだ。
 この閉じられた場所に居るからこそ、キールは自分を一番に見てくれているのではないか──その結論は翼空にとって恐慌を呼ぶものでしかなかった。
 真摯な眼差しを浮かべ、キールは俯いたままの翼空をじっと見つめている。翼空が考えをまとめ、今出すことの出来る答えを待っているのだ。
 暫しの逡巡が胸のうちを駆け巡った後、翼空はゆっくりと顔を上げてキールを見つめ返す。
「キール。俺は……ずっとキールに頼っていて、それで良いのかって思ってた。何もせずに、あるかもしれない役割を果たさないで、ずっとこの部屋にい続けて良いのかって。キールのことも、俺がいるからキールは自由に動けないのかもしれないって。キールは……キールは、この部屋が好き?」
 正直なところ、翼空の考えはまとまっていなかった。ただ上手く言えなかったとしても、不安に思った事をありのまま話す──それが翼空の結論だった。
 終始穏やかな表情で静かに話を聞いていたキールだったが、最後自分に向けられた問いに、笑みを浮かべながら口を開く。
「その質問に答える前に、いくつか質問をさせて欲しいんだ。翼空、翼空はこの部屋から出て行きたい?」
「……ここに、いたい」
「どうして?」
 それは、と翼空は一拍置いてから続ける。
「キールが居るから」
「俺が居ないこの部屋は好き?」
 優しい声音をしたキールの丁寧な質問は、まとめた考えを補ってくれるように感じられた。
「……嫌い」
「俺もだよ、翼空。翼空が一緒にいるこの部屋が好きだから、ここにいる。翼空は?」
 優しい笑顔と言葉を向けられた翼空はハッとしてキールを見つめた。
 それにね、とキールは翼空の返事を待たずに言葉を続ける。
「自分に何が出来るんだろうって翼空は言うけど、こうして俺を温かくしてくれるのは翼空だよ」
 キールの言葉一つ一つが翼空を包み込み、細胞が酸素を求めて呼吸するように緩やかに全身へとしみこんでいく。
 たった一つ大切なもの──相手と一緒にいるこの場所が好きだからここにいたいということ。キールを温める事が出来るという、それに勝る価値のある役割を翼空は知らない。 
「キール」
 憂いの消えた笑みで、翼空はロッキングチェアに腰掛けたままのキールの足に腕を絡めた。
 多くの言葉は要らない。こうして温もりを感じあうことが何より大切なのだから。
「翼空。今年のバレンタインも、一緒に作ろう。来年も、そのまた次の年も。ずっと、この部屋で」
「うん。うん、キール」 
 幸福感で胸をいっぱいにしてキールの膝に顔を埋める翼空の上で、微笑んでいたキールの口角が僅かに上がった。