2010年02月26日

X-Day (5)

 彼は悩んでいた。
 沈着冷静で内面の葛藤などおくびにも出さないし一切気づかせていない。が、確かに悩んでいた。
 お題目は、この時期お約束といって良いだろう、今年のバレンタイン。
 プレゼントに何をあげるのかは決まっている。お節介な仲間の一人が提唱したおかげで、マフラーを編む羽目になった。仲間内全員がマフラーをプレゼントするのだが、色や柄、長さは個人の自由。それならば恋人の髪色に映えるよう黒にしようと思ったが、黒は「誰か」とそろいになると知り銀糸をちりばめた淡いグレーに変更した。
 その「誰か」とのそろいで恋人の嫌がる顔を見たい気もしたが、このところ自分が編み物をしている姿を嬉しそうに眺めているのを見ると、そんな意地悪もやめておいてよかったと思う。
 彼の恋人とは、彼に対する想いの深さゆえなのは重々承知だが、一度落ち込ませるとなかなか浮上する事が出来ない厄介な相手なのだ。出来る限り落ち込ませないに限る。
 ──それはともかく。
 では、彼がいったいバレンタインの何に悩んでいるのかというと、一緒に手渡す菓子をなんにするか。そしてどんなタイミングで渡すか、という事だった。
 実際「何をそんなくだらないことを」と彼自身思う内容であるのだが、簡単に解決しないのだから仕方ない。
 先ず第一に、何の菓子をあげるかという事だった。元来、彼は製菓が得手ではない。周囲の菓子名人が手作りの美味しいケーキやらクッキーやらをこさえている横で、自分は凡庸な菓子をあげるというのは、彼の矜持をいたく傷つけるのだ。
 いつもならそんなに気にしないところだろう。他人と比べる事さえ馬鹿らしいと、普段の彼ならば一笑に付すに違いない。
 けれど今年は違う。何故なら、プレゼントが皆同じ手編みのマフラーなのだ。つまりそれは、裏を返せば比較が容易であるという事に他ならない。
 基本的に器用なので、編み物はどうにかなった。というか、マフラーは難易度の低い代物なので多少の手習いをするだけで完成は容易だった。
 だが菓子作りとなるとそうはいかない。
 いっそ有名メーカーのものを買うか、それとも力を尽くして作るか。それが一つ目の悩みだった。
 二つ目、タイミングについては十四日当日に渡せば良いだけ──の筈なのだが、彼には当日朝からそわそわしているだろう恋人が容易に想像できる。
 その様子をいつまでも眺めて焦らし続けたいという意地の悪い思いと、そうして焦らしてしまったら確実にタイミングを逃すうえにだんだん萎れていくだろう恋人も想定の範囲内。線引きの見極めが重要になるのだ。
 そして肝心のバレンタインが近いというのに、ため息ばかり出るのである。
「……はあ」
「隆生?」
 名前を呼びかけられ、彼──隆生はハッとして恋人の顔を見る。そこには心配そうな表情がありありと浮かんでいた。
 昼下がりのテラスに湯気が立ち上る紅茶、そして恋人の焼いたアップルパイ。長い思索の旅から帰った隆生が自分の置かれた状況を思い出す。
 そう、今はティータイムをしていたのだった。 
 どうやら随分と深く思考の海に沈んでいたらしい。一度呼びかけられたのに反応しなかったくらいでこんな心配顔はしないだろうし、恐らく三、四度は呼ばれても返答しなかったのだろう。
 だがここで思惑を気づかれるわけにはいかない。
 何でもない、と隆生は静かに首を横に振る。
「このところ、慣れない作業をしていた所為か少し疲れているらしい」
「ああ……なら、少し休んだほうが」
「大丈夫だから。アウル」
「しかし」
「俺が大丈夫といっているのだけれど?」
 それ以上続けさせないと言わんばかりに、隆生がきっぱりと言い切ると、まるで印籠を出されたかのようにアウルは押し黙る。
 隆生がこういう言い方をした時、余程の事でない限りアウルは反論しない。またそれを判って隆生もそんな言い方を選んだのだ。
「……判った。けれど、辛くなったら」
「勿論、自分の躯は自分が一番良く知っている。無理をするつもりはない」
 にっこり微笑んだ隆生は、これでこの話題は終わったというように、綺麗に切り分けられたアップルパイにフォークをさす。
 丁寧な所作でアップルパイを口内へと運ぶ。さくっとしたパイの心地よい食感と香ばしさ、甘さと酸味の絶妙なバランスの林檎、そこに加わる程よいシナモンの香りと文句の付けようがないほど素晴らしい。
 こんな相手に手作りの菓子をあげて、尚且つ比較されるかもしれない──プライドの高い隆生にとってそれは、やはりどうしても避けねばならない。
「味はどうかな。今日は少し甘みを押さえてみたんだけれど、君の好みに合っているだろうか」
 謙虚に微笑むアウルに、隆生は表面上の笑顔で返す。
「今日のも十分美味しいよ、アウル。流石だね」
 良かった、と安心しているアウルを前にして、隆生はとある決意をする。
 美味しいと有名チョコレートの店を調べ、今年はそこで買うということを。そして今年のバレンタインは23:58分に渡そうと心に決めたのだった。
 ──勿論後者については、アップルパイをこんなにも美味しく作る事の出来るアウルへのやっかみ……もとい、八つ当たり……でもなかった、ちょっとした仕返しである。
「隆生、お茶のおかわりは?」
「貰おうかな」
 暖かい午後の昼下がり。
 一見のどかなティータイムは、まだまだ始まったばかりだった。