2014年10月14日

一得一失――秋嵐乱心(緑高+中高)

このシリーズの、前回の更新日みたら半年前でした……まったりマイペースが過ぎるかも知れないと思いつつ。というかこれを書いている間に、コミックスのQ&Aで誠凛メンバーの家族構成が判明致しまして。相田家が完全捏造、原作と異なっております。一番最初にこの設定で書いてたとき(『公私混同』2012/10時点)はまだ不明だったので、このお話では相田家は父と娘の二人家族ということでお願い致します。というか2012って。我ながら時間かけ過ぎですね……当初は場面を切り取っただけの短篇のつもりだったというのもあるんですが。

そんなわけで、今回は緑間さんと高尾君中心のお話です。ようやっとここまでまいりました。
最後にちらっと中谷監督も出てきますが、基本緑高です。
この後、読まなくても話の繋がるR18話を入れるかどうか思案中。


毎度ながら注意書きです。

・このシリーズは全編を通して緑高・緑高前提の中高を含みます。
・物語開始時から緑高を前提としております。
・直接的な濡れ場は御座いませんが、そういう過程も含んでおります。
・着地目標は緑高のハッピーエンドですが、そこまでの道程は基本的にすれ違いシリアスです。

これまでのお話は以下になります(UP順)。

・人事不省(中谷×高尾)
・公私混同(相田景虎&中谷仁亮)
・暗中模索(緑間×高尾)
・青息独白(緑間×高尾)
・満心創痍(中谷×高尾)
・宣戦布告(中谷&緑間)
・因果応報(中谷×高尾)
・二兎両失(高尾和成)
・一得一失(緑間×高尾 中谷)

時系列は以下の通りとなっております。
暗中模索→青息独白→人事不省→満心創痍→因果応報→公私混同→二兎両失→宣戦布告→一得一失

以上の内容でも問題ないという方のみ、お進み下さいませ。




 ふらふら、若干おぼつかない足どりで階下に降りる。
 いざこうして歩くとよくわかる。だいぶ良くなったと油断していたが、正直、まだ割と頭が重い。漬物石とまではいかないが、バスケットボール二個分くらいの重量がのしかかっている気分だ。
 未成年なので飲酒経験は流石に無いが、世間で二日酔いと称される症状もこんな感じなのだろうか。
 気休めに額へ手を添えて頭を支えつつ、高尾はリビングに行く。
「……あれ?」
 人の気配がない。てっきり母親がワイドショーでも見ていると思ったのだが、予想は見事に外れたようだ。
 きょろ、と高尾は視線を巡らせた。洗濯物はしっかり取り込まれ、畳まれた衣服がソファの端に纏められている。
「買い物でも行ったんかなー」
 ふとテーブルを見遣ると、そこには一枚の書き置きがあった。手にとってみると、文面は見覚えのある母親の筆跡で書かれている。
「あー、はいはい。そいや今年、妹ちゃんのガッコーで役員になったとか言ってたっけ。……んで会議があっから帰りは夕方過ぎ、もしかしたら懇親兼ねた夕食会がある、そんときはまたメールする、な。でもって妹ちゃんも今日は部活の日で遅い、と。で俺の昼メシは……あ、ちゃんと用意してあんのか」
 置き手紙の指示通りに冷蔵庫を開ける。すると確かに、茹で済うどん玉が一袋と小さなタッパーには刻み葱。振り返ったコンロには、鰹出汁の香る鍋があった。
 火をつけて、少し煮れば素うどんの出来上がり。
 この程度のお手軽簡単クッキングならば、茫洋とした頭でもどうにかなるだろう。
 男子高校生の胃袋には些か物足りないが、元々食欲はそんなに無いし、病人の腹には丁度良い食事量だ。
「……ま、こいつは後でいーや」
 とにかく今は汗をどうにかしたい。全身がべとついていて、たまらなく気持ち悪いのだ。
 シャワーを浴びるか、体を拭くか。
 拭くだけでも体はさっぱりするが、それだと頭を洗えないのがネックだ。
 とはいえ、熱が若干下がったばかりで、流石にシャワーはまだ止したほうが良いかもしれない。
(うーん)
 どちらにせよ、ここで悩んでいても仕方がない。素足で廊下をペタペタ鳴らし、高尾は洗面所に向かう。
 歩きながら、なんとはなしに軽く頭を掻くと、頭皮の油脂が指先に纏わりついた。汗もかいたし、熱で寝込んでいたのだから当然なのだが、やはり気分は宜しくない。
(どーすっかな。出来ればシャワー浴びたいんだけど。まだ微熱あんのに入ったら、怒られっかなあ)
 母親の小言回避と頭髪の爽快感。
 どちらを選ぶかの決着は、実にあっさりついた。
 洗面所に、母親が用意してくれたのだろう、着替え一式が置かれていたのだ。
「……これは、シャワー浴びてもいいっつーことだよな?」
 躊躇いの理由が消えるならば、シャワーの一択しかない。
 そうと決めた以上、さっさと入っても良いのだが。
 先ずはとりあえず、と高尾は洗面台の蛇口を捻る。勢い良く流れ出た水を両手で掬い、繰り返し顔にぶつけた。
 水で流しただけではあるが、久々の洗顔で、油分と汗が流れ落ちていくようだ。弾ける冷水が、肌に染み渡って心地良い。
「あー、すげー気持ちいー」
 水を拭って顔を上げると、鏡台に映る自分と目が合った。顔色はまだ憔悴を残しているが、一昨日よりは遙かにマシだ。
 意識して表情筋に力を入れ、笑みを作った高尾は、鏡の自分を中指で弾く。
 全てが終わったとき――遠くない未来、己の犯した罪が清算されたら。この鏡には果たして、どんな自分が映っているのか。それはまだ判らない。
 ただ、今よりはマシな顔でありますようにと。祈る気持ちで高尾は服を脱ぎ、バスルームの扉を開けた。



 二日ぶりの風呂は本当に気持ち良かった。
 すっきりした気分でバスルームを出て身支度を整え、食事をして薬も飲んだ。お陰で頭の重さは、幾分楽になった。
 キッチンに立つのは久々だったが、どうにか美味く作れたと思う。少しでも食欲を増進させようと好物のキムチを入れるつもりだったのだが、残念ながら冷蔵庫のストックから消えていたため、叶わなかった。
 まだいがらっぽい喉の調子を考えると、いくら好物とはいえ入れなくて正解だったかもしれない。
 あとは部屋に戻って休むだけだ。実際、薬の影響もあってか、あれだけ寝たのに、既に若干眠い。
 にもかかわらず、高尾はまだリビングに居た。理由は単純明快。眠るのが――夢を見るのが怖いのだ。
(……情けねー)
 抱えた膝に顔を埋め、ドライヤーで整えた髪を遠慮なくガシガシ乱す。
 自分なりにケジメをつける、と。そう決めた。だが、如何に堅く決心したところで、夢の内容ばかりは自分で決められないのが実情だ。
 無意識下における希望と願望、不安と絶望。それらが織りなす混沌の世界が待っていると思うと、決心も鈍ってしまいそうで、どうしても二の足を踏む。
 さりとてこのままでは、ソファでうたた寝してしまう。風呂あがりでそんなことをすれば、確実に風邪をぶり返すだろう。
「あーもー、しゃーねえ。いくか」
 逃げないんだろ、と自分に言い聞かせるように独りごち、リビングをあとにする。
 ぺたりぺたりと重い足取りで、高尾が二階への階段に足を乗せた、そのときだった。
 ぴんぽん、と。
 玄関から、誰かの訪問を告げる電子音が高尾家に響きわたった。
(宅急便?)
 一番可能性が高い訪問者を想定するが、ううんと首を傾げる。もし宅配業者が来る予定ならば、母親は荷物が来ると伝言を残して出かけるだろう。予定外の荷物なのだろうか。もしくは、宗教の勧誘とか。
「どちらさんっスかねえ」
 出る前に相手の姿を確認したいなら、カメラの付いているインターフォンが確実だ。
 が、受話口があるのはリビング。たいした差ではないが、階段からリビングまで戻るのは若干億劫だ。それよりも、ほぼ目の前にある玄関に、直接出たほうが手っ取り早い。
 無論、病気で学校を休んでいる身なのだから、居留守を決め込んでも良いのだが。
(んー……)
 改めて、己の身なりを振り返る。
 起き抜けの先程ならともかく。シャワーを浴びた今、汗臭さは消え、髪もきちんと整っている。寝間着兼部屋着のスウェット姿は、他人に姿を晒しても、そこまで恥ずかしくはない格好だ。
(まあいっか)
 一応、手櫛で髪を適当に撫でつけてから三和土に飛び降り、高尾は施錠を外してノブを回した。
「ハイハイ、お待たせしまし……」
 軽口を叩きながら、開きかけたドアの向こうに立っていた人物が視界に入る。
 その人物を認識した途端、高尾の脳はフリーズを起こした。
「――――あ」
 またたきを忘れ、鷹の異名をとる瞳をめいっぱい見開く。
 そこに映るのは、秀徳の制服を身に纏った長身。
 逆光でハッキリとは見えないが、眼鏡の向こうで、感情の窺えない瞳が自分を見下ろしていた。
「思ったより、元気そうだな」
 夢の中で何度も聞いたはずの声。なのに、もう随分と久しぶりのような気がして、いっそ懐かしさすら感じる。
「高尾」
「――――……ッ!」
 名前を呼ばれたその直後。
 考えるより先に、手が勝手に扉を閉めていた。
 ばたん、と大きな音が玄関に響く。
 訪問相手に失礼極まりない仕打ちだが、それを気にする余裕は、今の高尾にはない。
 冷たい扉に額を押し当て、ごくりと生唾を飲んだ。
(え、ウソだろ何で? なんで今、ここに。つか部活どうした。あれいつの間に夕方ンなったとか? いやいやんなわけねえし)
 自問自答をする間、高尾はドアノブに手をかけたまま、呆然と半傾の姿勢で立ち尽くしていた。
 ドッドッと鼓動が激しく脈打ち、動揺をくまなく全身に伝える。
 幻じゃないのかと、血の気が引いた青い顔を、もう片側の手でぺしぺしと叩いてみる。ショックのあまり頬の痛覚は鈍麻していたが、辛うじてひりつく痛みを感じられた。
 つまり。これは、ソファでうたた寝している自分が見ている夢、ではないらしい。
 間違いなく。緑間真太郎その人が、このドアの向こうにいるのだ。
「おわっ」
 不意に、高尾の身体がぐらりと前方に傾いだ。
 あまりの衝撃で立ちくらみを起こしたのかと思いきや、そうではない。
 単純な話、緑間が扉を開けただけ。額はドアに寄り掛かったまま、手は硬直したままドアノブを握っていた為、動きがドアと同期して引っ張られたのだ。
「っ、とっ、と」
 慣性の法則に従って前方につんのめった頭が、ぼふりと緑間の胸を強打する。額に当たった学ランのボタンを痛いと思う前に、頭上から声が降った。
「結構な挨拶だな」
「あー、その」
「まあいい。それよりも、お前と話がしたい。あがらせて貰えるな」
 伺いというより、それは決定項なのだと断定する語調だ。淡々と、どこか強張った声で言い切る緑間から、絶対に引かないという強い意思を感じた。
「はなし」
「そうだ」
 ゆるゆると顔を上げる。こうしてまっすぐに緑間を見るのは、拒絶の背中を見送ったあの夜以来だ。
(……なんか、全体的にしゃちほこばってるっつーか)
 表情自体は、いつも通りのポーカーフェイスなのに。よくよく見ると、頬が硬い。自分ほどでないにしろ、纏う雰囲気から疲労の色が窺えた。
 こんな余裕の無い緑間を見るのは、正直言って初めてだ。
(……すげー疲れた顔してんのな、って当然か。――大丈夫。ちゃんと終わらせっから。もう、そんな顔させねーよ)
 ふう、と息を吐いた高尾は腹を括る。
 いきなりの事態に取り乱したが、少しずつクールダウンした脳が働きだし、本来の回転を始めた。
 実際これは、良い機会だ。
 何故なら、緑間と話をするにしても、学校内では人目につく。誰にも見られず聞かれず、邪魔の入らない場所を見つけるのは、はっきり言って難しい。
 経済力のある大人ならば、プライベートの守られた個室を気軽に用意出来るのだろう。だが、高尾はまだ未成年で一介の学生。小遣いを貰う身分であり、扶養家族の一員だ。財布の中身を考慮するならせいぜいカラオケボックスが関の山だが、話は聞かれなくとも犯罪防止用のカメラが入っている。人目を皆無にするのは無理だ。
 それにひきかえ、今ならば折良く家は無人だし、暫く誰も帰ってこない。多少、声が大きくなろうが、隣家に聞こえるようなボリュームでさえなければ、誰に聞かれる心配もない。込み入った話をするには、うってつけの環境だった。
「高尾」
 再度、返答を促す声に、こくりと頷き。小さく深呼吸をしてから高尾は「わかった。どーぞ」と、緑間を家へと招き入れた。
  


「先に上、行ってて。俺、お茶いれてくっから」
「……」
「んな顔しなくたって、逃げねえよ。ちゃんと話するって決めたからさ」
 それでも尚、渋い表情を浮かべる緑間を二階へ促し、高尾はキッチンでお茶を準備する。
(真ちゃんが俺の部屋に来るの、今日が最後になんのか)
 ならば、せめてものもてなしをしたい。とっておきと母親が言っていた日本茶を棚から手に取り、客用の茶碗と急須を一緒に盆へ乗せる。いつもならキッチンで適当に淹れていくのだが、今日は手を抜かず、わざわざ魔法瓶に湯を注いだ。どうせなら淹れたての方が美味い筈だ。
 盆と魔法瓶、両手の塞がった状態で、階段を登っていく。
 不思議と心は凪いでいた。部屋に向かう足取りも、呼吸も脈動も、今は平常そのものだ。
 玄関で緑間と相見えたときは、あんなに動揺したのに。いっそ驚愕が勝ち過ぎて、心が麻痺しているのかもしれないが。
(麻痺、上等じゃね?)
 それで落ち着いて話が出来るなら万々歳、高尾にしてみれば願ったり叶ったりだ。
 泣いたり喚いたり等、みっともない姿は見せたくない。酷い裏切りを働いた自分が望めることではないが、出来るだけ綺麗に、少しでも良い形で終わらせたいのだ。
(あ。部屋の扉、開いてっかな……って、やっぱ閉まってるか)
 案の定閉じていた自室の扉に向かい、高尾は声を掛ける。
「なあ、悪い。ドア開けて貰えっかな? 両手塞がってんだ」
 ドア向こうからの返答はない。緑間は中にいる筈、なのだが。
(……用を足してるとか?)
 くるりと振り返って、別のドアを見遣った。高尾家には二階にも手洗いがあるのだ。
 もしそうならば仕方がない。いったん魔法瓶を床に置き、高尾は空いた手でドアノブを回して押す。
 が、途端現れた、目の前を塞ぐ長身に驚き、思わずたたらを踏んだ。
「おうわっ!」
「……俺が部屋に居て、何をそんなに驚く。二階に行けと言ったのは高尾、お前だろう」
「いやビックリするだろ。返事ないから、部屋にいないかと思ったんだよ」
「呼んだのか」
「聞こえてなかったとか?」
「ああ」
 喉の痛みは引いている筈なのだが、呼びかけの声が小さかったのだろうか。
 疑問は残るが、今は瑣末な問題だ。とりあえず魔法瓶を持ち上げ、盆と共に勉強机へ置いた。次いで、ぱたん、と扉を閉める。
「そういえば、随分と静かなのだな」
「ああ。今、家に誰もいなくてさ」
「……誰も? お母上もか」
「そ。妹ちゃんの学校で今年役員って話、したことあったよな。それ関係」
「成る程な」
「妹ちゃんも部活で遅いし――だから話すんのに、邪魔は入らないぜ」
「…………それは、僥倖だ」
「取り敢えず、そのへん座って。今、茶淹れるし」
 目線で促すが、当の緑間は鞄を床に置いただけで、依然扉の近くで立ったままだ。どうやら緑間に腰を落ち着けて話をするつもりはない、らしい。
 緑間が短く済ませたいならば、それでも良い。茶の支度を中断し、高尾は緑間を振り返る。
「座んねーの?」
 最終確認代わりにそう言って、高尾は緑間の前に立った。
 見上げた緑間の顔つきは更に厳めしく、唇を引き結んでいる。それは決壊寸前の感情を、何らかの情動を、必死に抑えているように見えた。
 恐らくは、怒りを。
 それでも緑間の瞳が無感動や蔑みでないことに、高尾は心からの安堵を覚える。もし緑間の視線に、蔑視の色がありありと浮かんでいたら。こうして目の前に立つのは、多分、もっと辛かっただろう。
「……怒ってるよな。や、呆れてるか。謝って済む話じゃないのは解ってる。でも、言わせてくれ。ごめん」
 深く、頭を下げる。
 下降した高尾の視界に、緑間の手が映った。握りしめた拳が、小刻みに震えている。先程の表情から察するに、今すぐにでも自分を殴りたいだろうに。辛抱強く、話を最後まで聞くつもりなのだろうか。
 あれを頬に喰らう覚悟なら、とうに出来ている。さっさと鉄拳制裁してくれても構わないのに。
(っつか、殴られたいっつーのは俺の勝手な逃げだよな。そこで逃がしてくんないあたり、真ちゃんらしいよ)
 己が招いた結果とはいえ、自分の愚行を改めて口にする方が、殴られるより余程キツい。つまりこれが緑間からの罰だというならば、甘んじて受け入れるべきなのだろう。
 ふう、と一呼吸置いて。身体を折った体勢のまま、高尾は言葉を続ける。
「あんとき、部室で酷いこと言ってごめん。携帯の電源切りっぱで、その後もさっきまでずっと入れてなくて、話すの避けててごめん。それから――お前を裏切って、ごめん。どっから知ってるかわかんねーから、先に言っとくけど。監督は悪くない。あれは、俺が頼んで、ッ?」
 言葉を紡いでいる途中で、いきなり両肩を掴まれた。そのまま、半ば強引に身体を起こされる。
「う、わっ」
 危うくバランスを崩しかけたが、幸か不幸か緑間に肩を掴まれているので、倒れる無様はどうにか避けられた。
 ほぼ直立不動の格好で、否応にも正面から向かい合う。
 自分を真っ直ぐ見据えた緑間の表情は、これまで以上に硬い。わなわなと震える唇が、緑間の激昂する様を伝えてくる。
 あの唇が与えてくれる、ぎこちなくて優しいキスが好きだった。
 もう、二度と触れることは叶わない――自業自得とわかっているのに、胸が軋む。
(未練がましいっつの)
 階段を上がっているときは、自分は冷静だと思っていたのに。今はそれが嘘のようだ。麻痺の効果は、もう消えてしまったのか。
 胸の奥が、ぎゅうと締め付けられる。泣き出してしまいたい気持ちを懸命に堪え、高尾は自嘲気味にへらりと笑った。
「ははっ。なに。やっぱ、先、殴りたい? いーぜ、覚悟してるし」
「……馬鹿か、貴様は」
 ぼそりと。辛うじて聞き取れるボリュームで、緑間がそう呟いた。
 なに、と。聞き返す間も無かった。突如、掴まれていた肩を、部屋の扉に思い切り強く押し付けられたのだ。
 勢い余って強かに背中を打ち付けた高尾は、ゴホゴホと軽く咳き込む。
「いっ、てえ」
「馬鹿を言うのも大概にしろ」
 バスケットボールを軽々と鷲掴む強い握力が、高尾の肩骨をぎりりと苛む。
 アンダーリムフレームの向こうから、鋭い視線で射抜かれて、身動ぎも出来ずに高尾は息を止めた。気分はまるでピンを刺された標本の蝶だ。
(何でそんな)
 先程まで以上に、肌を突き刺す真剣な怒気。地を這うような、怒りに満ちた低音。緑間の身体から憤怒のオーラが立ち昇る幻覚を見た高尾は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 いっそ殺気すら滲む迫力に、理由を問う余裕もなく、高尾は返す言葉を失う。
「俺がお前を殴りたいと? よくも馬鹿なことを言えたものだ。ああ、お前が本気で望むというなら、実行してやるのもやぶさかではない。だが決して俺の本意ではないことだけは覚えておけ」
 静かながら、次第に凄味の増した低音が、怒りの深さを物語る。
 実際のところ、強い力で扉に身体を押し付けられた現在の状況とは、些か発言が矛盾している。が、緑間が力でけじめをつけることを望んでいないのは、回らない頭でも理解出来た。
 今の状況は、高尾が緑間を怒らせた所為で、つい行動が過ぎてしまっただけだ。本来ならば力ずくなど、忌避したいと解釈していいだろう。
 落ち着いて話がしたかったのにもかかわらず、緑間から余計な怒りを買ってしまったことに、高尾は心の内で嘆息する。
 普段から緑間翻訳機と呼ばれている高尾の読みは、あの夜からずっと役立たずだ。
 入部からこちら、秀徳の誰よりも正確に、緑間の思考をキャッチ出来ていたのに。それも緑間と心が離れてしまっている所為かと思うと、辛い。
(でも、覚悟は決めてたはずだ)
 どんな状況になろうと、きっちり最後までけじめをつけなければ。
 己を叱咤し、緑間の厳しい視線を受け止めつつ、高尾は努めて冷静を心掛ける。
「悪い。真ちゃん、暴力とか嫌いだもんな。気分害させたかったんじゃないんだ。ただ、俺自身が真ちゃんに殴られるのを望んでた。ケジメつけたいっつーか。そんだけのことをしたって、自覚あるからさ」
 びく、と。高尾の肩を掴んでいる緑間の手が痙攣する。
「それだけのこと、か」
「留守電、聞いた。監督とのこと、釈明しろって言ってたよな。やっぱあんとき、戻ってきた……んだよな」
「……その通りだ。あの後、俺は結局帰るに帰れず、部室に戻った。その折、ほんの一瞬だが、お前達の姿を、見た」
「……そか」
「本当に一瞬だ。直視に耐えかねたのもある。衝撃のあまり、すぐに立ち去ってしまったので、仔細は解らなかった。出来るならお前からきちんと話を聞きたかったが、頭に血が上っていた俺は、お前を追い詰めるような文言しか残せなかった。避けられても仕方が無い」
「……そこは、真ちゃんの所為じゃない」
「だから俺は今日、ここに来る前に監督と話をして来た」
「――はっ? え、ちょっと待て。監督と?」
「ああ。事実の確認と、俺との諍いの最中、お前が何を思ったか。何故――その、お前から行為を求め、望んだのか。あくまで監督の所見だが、全て聞いた」
「――――全てって、おま」
 寝耳に水な緑間の言に、言葉通り、高尾は空いた口が塞がらない。
 一瞬だろうと中谷との情事を目撃されていたことについては、改めて聞くとそれなりに衝撃だが、予想の範囲内だ。留守電に残されていた内容から、心の準備も覚悟もしていた。
 それよりも驚かされたのは、緑間が中谷と話をしてきたという事実だ。
 情事を経たあの夜、送ってくれた中谷はたいそう自分を気にかけてくれていた。そこに含まれた情の種類は、推測の域を出ないので割愛するが。
 あのとき中谷は、無理に忘れられないことは、心にしまっておけば良いと自分に言った。その中谷から動いたとは、到底考えにくい。緑間が事実確認の為に中谷を問い質したと考えるのが妥当だ。どこまでも不器用に真っ直ぐな緑間らしい。
(全部、知っちゃったか)
 ふう、と高尾の体から力が抜ける。
 果たして中谷からどんな説明が為されたは不明だが、虚偽はないと考えていいだろう。そして緑間が事情を知ったと言う以上、あの日について自分と話をする意味は無い。
 ならば残っているのは――最後の別れ話だけだ。
「そっ……か、監督から」
「ああ」
 ゆっくり、緑間が頷く。
 脱力した筋肉とは裏腹に、ムーンサルト級にねじ切れそうな胃も、必死にポーカーフェイスを作る表情筋も、そろそろ限界を訴えている。涙腺など、ちょっと突ついただけであっさり決壊しかねない。まさに砂上の楼閣だ。
 だが、それもあともう少しだ。あとほんの少しだけ、保てばいい。
「そんなら話は早いな。……今までサンキュ、真ちゃん」
 ぴくぴく痙攣する頬を無理やり持ち上げ、高尾は口の端に笑みを作った。
 肩から緑間の手を除け、しっかり前を向く。
(……ッ)
 言わなければならないという理性に反し、決定的な言葉を発したくないと、喉が自然とカラカラ乾く。今更。本当に今更、別れを拒んで、心が軋む。
 恥も外聞も投げ打って、髪を振り乱し、泣き叫んで縋りつきたい。それで引き止められるなら。
 みっともなくてもいいじゃないか。
 許してくれるかもしれないじゃないか。
 偏屈で、気分屋で、おは朝占い信者で。けれど高尾にとって最高に大切な親友で、コート上の相棒で、恋愛に不器用な恋人。二度と、こんな相手には巡り会えない。
 我儘でも最低でもいい、なんと罵られようが、やっぱり失いたくない。
 まだ一緒に、バスケがしたい。自分のパスでシュートが決まる、あのたまらない充足感を共有していたい。
 本人を目の前にして、改めて思い知らされる。自分はどれだけ、緑間のことが好きなのかと。
(――――だから、覚悟したろーがッ!)
 このままでは暴走しかねない想いを無理矢理縛り上げ、ガス抜きとばかりに胸中で吠える。
 握りしめた拳で大腿を殴りつけると、じんじんとした痛みが、少しばかりの冷静を高尾に連れてきてくれた。
 この期に及んで往生際悪く暴れる感情に喝を入れて蓋をし、はぁっと息を吐き出してから、顔を上げる。
「高尾?」
「短い間だったけど、俺は、一緒にいられてすげー楽しかったぜ。こんな終わりにしちまって、本当にごめん」
「――――」
「学校は流石に変われないけど、来年のクラス替えまで待ってくれっかな。バスケ部も俺が辞めっから、安心してウィンターカップに臨んでくれよ。先輩達には、ちゃんと俺から謝って」
「待て。何の話をしている」
 困惑と焦燥を絵に描いたような形相で、緑間が一歩、前に出る。距離を保っていたくて、高尾も合わせて後退したかったが、ドアに阻まれて下がれない。
 間の縮まった緑間から逃れるように、高尾は横を向いた。
「なに、って。わかるだろ。お前を裏切ったケジメ、つけようとしてンだよ」
「裏切りか。確かに事象だけを見れば、その通りだ。だがお前にその選択をさせたのは、俺の至らなさなのだよ」
「は? 違うだろ。お前の所為じゃなくてあれは、俺の意思だ。俺が、望んで」
「では聞くが。お前は、前々からあの人を恋慕い、抱かれたいと望んでいたのか。俺の恋人でありながら、心は別にあったのか」
「そりゃ――違う、けど」
 それだけは違う、と高尾は声にせず反芻する。
 あの時、部室に来たのが中谷以外でも同様の展開になったかと言われると、それも答えは解らないが。
 少なくとも、緑間と共にいる時に、他の誰かをそんな目で見たことなどない。心が惑ったこともない。
 戸惑いながら顔を正面に戻して答えると、明らかに安堵した様子の緑間が、吐いた呼気を震わせた。
「高尾。話の中で、監督はお前を愛していると言っていた。生徒としてではなく、一個人として」
 どくん、と高尾の鼓動がひとつ、大きく跳ねる。
「……そ、か」
「驚かないのだな」
「なわけないだろ、これでも充分驚いてるって。ただ、そう見えるんなら――もしかしたら、なんてちょっとだけ思ったからかもな」
「監督の気持ちを知って、お前はどう思う」
「どうって」
 些か語調の強い緑間の詰問に、高尾は言葉を詰まらせる。
 監督が自分を――愛している。
 聞かされて先ず胸を占めたのは、驚き。それと同時に納得を経て、残ったのは一握りの喜びと、大きな罪悪感だ。
 あの夜、中谷と交わされた部室での、そして車中でのやりとりが思い出される。中谷はどこまでも大人で、優しかった。なのに自分は、あの温かな腕に甘えるだけ甘えて。想われているとハッキリわかったからこそ、酷なことをした自覚が膨らむ。もしかしたらと想像した中谷との未来分岐すら、高尾の中で罪の意識に変わっていく。
「監、督……が……」
 声にするつもりはなかった。あまりの申し訳なさに、心の中で呼びかけた、だけのはずだった。
 無意識のうちに呟いた、その瞬間。
 多少緩んでいた緑間の手に、いきなり力が加わった。
「いっ……」
「答えろ高尾。お前の気持ちは今、どこにある!」 
 千々に乱れる心を引きちぎり、そのまま形にしたら、こんな声色になるのではないか。
 聞いた高尾の身が竦みあがるほど、緑間の叫声は悲痛に満ちていた。
「――どこ、ってンなこと、今はどーだって」
「高尾ッ!」
 間髪入れず、緑間の腕に身体を引き寄せられる。
 全霊とも思えるほどの強い力が込められた腕に抱きしめられて、肺と気道が圧迫され、呼吸がままならない。
「っ、ちょ、くる、し」
 訴えかけた苦情はスルーされ、むしろ力は更に強まる。
 コートの端からゴールリングへシュートを放れる緑間の腕力は、並ではない。ぎしり、軋んだ高尾の背骨が無言で悲鳴をあげた。
「……たさない」
「いま、なんて、言っ……」
「お前を、誰にも――渡したくない、と言った。あの人との間に如何な過ちがあろうと、俺の今後にお前がいないなど耐えられないのだよ。だから高尾、頼む。俺を、選んで欲しい」
 懇願に近い、真に迫る緑間の言葉に、後頭部をどがんと殴られたかのような衝撃を受ける。
 信じられない。
 あまりに都合が良過ぎる展開で、夢を見ているようだった。だが力強い抱擁が、これが幻などではないと教えてくれる。
 嬉しさのあまり、緑間の背に回しかけた手を、理性が阻んだ。
(俺には、そんな資格――ない)
 望んで中谷と関係をもった自分が、このまま何も無かったように、おめおめと緑間の元に戻るなど。
 例え緑間が望んでくれているとしても。高尾自身が許せない。
「……ごめん」
 緑間の学ランに額を押し当てて俯き、高尾は答えを絞り出す。顔は、絶対に見られたくなかった。
 抱きしめる緑間の腕はそのままだが、高尾の言葉に力が緩んだ。
(傷つけた)
 もっと綺麗にサヨナラする筈だった。もう傷つけたくなどない。
 だが、これ以上の問答で緑間に追い打ちをかけると解っていても、高尾とてここは譲れない。
「それがお前の答え――ケジメとやらか」
「そ、だよ。だから離してくれ」
「出来ない」
 首を振った気配に、高尾はギリと奥歯を噛みしめた。
 早く終わらせなければと、心が急く。
 でないと――必死で守っている高尾の建前が、ポーズが崩壊してしまう。それは断じて、避けねばならない。
「あのな。今更元サヤとか、無いだろフツー。デートしましたっつーレベルじゃないんだよ。監督とは、俺から誘って、最後までヤっちゃってんの。なあ、これがどういう意味か本気でわかってんの。どう考えたって、許されて良いはずないんだよ!」
 下を向きながら一気にまくし立てた高尾の背が、呼吸に合わせて上下する。
「許されない、か。だがそれを決めるのは高尾、お前ではない」
「別に俺が勝手に決めつけてるわけじゃねえよ。普通、そういうもんだってだけだ。不義密通て昔なら死罪なくらい重罪なの、テストで首席も取っちゃうよーな頭で知らないわけねえだろ」
「まるで許されることを最初から放棄しているような口ぶりだな」
「それが当たり前なんだっつーの!」
「……ならば、お前は何故泣いている」
「――なッ、いて、ねえ」
「珍しく、嘘が下手だな」
 テーピングの巻かれた緑間の左手が、高尾の頬に添えられる。イヤだ、と僅かに力をこめて抵抗するも、あっさり顔を上向かされた。
(――ッ)
 しなやかで長い親指が、高尾の目元に溜まった光る雫を拭う。
「……あの日も、俺がお前を泣かせなければ――」
 アンダーリムフレームの向こう側、静謐で、けれど確かな炎を宿した瞳に見据えられる。
 虚偽に紛れた高尾の真実を、必死に見極めんとする瞳に、全身を絡め取られた気がした。
(そんな目で、見んな)
 不器用ながらも真っ直ぐな瞳で見られていると、隠していた感情が引き摺り出されてしまう。
 理論武装した心を、裸に剥かれていく。こうなるのがわかっていたから、緑間の顔を見たくなかったのに。
「高尾」
「……ッンだよ」
「キスを、しても良いか」
「は?」
 藪から棒に何を言い出すのか、思わず高尾は頓狂な声を出してしまった。ぽかんと間抜けに口を開けたまま、閉じるのも忘れる。
 だが返す緑間の顔は至って真剣だ。
「お前は口が巧みだ。言葉で真実を全て覆ってしまう。だからこれ以上の問答を続けるよりも、身体に直接聞かせて欲しいのだよ。……無論、無理強いはしない。お前の心があの人を選ぶというならば、拒絶してくれて構わない」
 思いもかけない発言に、高尾の頭は混乱の極地に置かれた。
(キスって。おい。つかナニ、身体に聞くって言い方エロいんだけど。いやそーじゃなくて。イヤかって聞かれたらそりゃ、ンなワケねーに決まって、ってそーでもなくて!)
 目を白黒させて対応に迷う高尾に、緑間は思考の隙を与えてくれない。戸惑っている間にも、ゆっくりと顔が近づいてくる。
「なあ、ちょ、待っ」
「……逃げないでくれ」
 ――拒絶して良いと言ったくせに。
 ぽろりと、切なげに漏れた緑間の本音に、高尾は心の中で叫んだ。
(それ、反則だろっ……!)
 反射的に背きかけてしまっていた顔が、緑間の声によって引き戻される。
 このまま触れてしまったら、離れる決心が二度と出来なくなってしまう。
(逃げ――ないと。でも、逃げないでくれ、なんて。あんな風に言われちゃ)
 片腕で軽く腰を抱かれているだけで、逃げようと思えばいつでも可能だ。けれど命令系統の混乱した頭は、ただ身体を硬直させるだけだった。
「真ちゃ、んッ……ぅ、ん」
 悪あがきとも言える制止の呼びかけは、小刻みに震える唇によってあっさり阻まれた。
 二度、三度と。接触を確認するように、こわごわ重ねるだけのキスが繰り返される。
 愛おしむ気持ちの詰まった、どこか臆病さを感じる触れ合いは、緑間と初めてキスを交わした時を思いださせた。
「高尾」
 キスの合間、切羽詰まった声音で呼ばれる名が、触れた唇から伝わる熱が、頑なな高尾の意思をじんわりと溶かしていく。
(ダメだ。ダメなんだって)
 良心が形を成したもう一人の自分が、必死に感情のバルブを制する。
 けれど。
「高尾っ……」
 想いのこめられた緑間の声が、高尾を構成する全てを揺さぶる。呼びかけられるそのたびに、理性をもった思考が使い物にならなくなっていく。
 緑間、中谷両名への罪の意識から、何重にも張り巡らせた建前が、ハリボテへと成り果てて。
 そうして、ついに。胸の奥に潜んでいた、単純で、だからこそ純度の高い素直な想いが、重たく凝った蓋をおしのけた。
 ふわり、浮かび上がった想いがそのまま、高尾を突き動かす。
 ドン、と。衝動のまま、握った拳を思い切り、緑間の胸に叩きつける。それを拒絶の合図と勘違いしたのか、緑間の身体が分かり易く半歩下がった。
 だが高尾は離れた緑間の襟を乱雑に掴み、ぐっと引き寄せた。涙に濡れた紅い瞳で、困惑に染まった顔を睨み上げる。
「ッカヤロ……好きだよ――チクショウ、好きなんだよ! どうしたって俺は、真ちゃんが、好き、なんっ」
「――――ッ!」
「んっ、あ……ふ、ぁ、ちょ、最後まで、言わせ、んんっ」
 感極まって叫んだ掠れ気味の声は、自分を強く掻き抱く緑間の深いキスによって、吐息ごと飲み込まれていった。
 




「……出ない、か」
 ぱたん、と。中谷は手にしていた携帯を折り畳む。
 先日訪れたばかりの道は、ナビにしっかり残されていた。それを頼りに、こうして高尾家の近くまできたのだ。
 家の前に停めては迷惑だろうと、少し離れた路上でハザードを点けて停車。数コールの電話を三回、高尾の携帯にかけた。
「……ふむ」
 電話は全て、留守番に転送された。だがコールされた以上、電源は入っている。その上で電話に出ない、もしくは出られない状況にあるのだ。
 寝てしまっているか、まだ自分と話せる心境でないか、或いは――緑間が居るのか。
 生徒指導室で緑間を見送ってから、ゆうに二時間は経っている。別離にしろ復縁にしろ、どんな答えであれ、結論は出ている筈だ。
 その上でまだ緑間がいるとしたら――状況は想像に難くない。
 ふう、と中谷は深い息を吐き出し、瞳を伏せた。
「上手くいったとみるべきか」
 それならば良い、と心から思っているはずなのだが。
 安堵の中に、苦い後悔が混ざっているのを中谷は自覚している。今もなお完全に断ち切れず、未練が尾を引いていないと言い切れない。
 教育者としては――同性愛の是非はこの際置いておいて、悩める可愛い生徒を二人救えた、これが正解の道だ。
 頭ではそう、理解しているのに。
「……滑稽だね、まったく」
 自嘲気味に呟いた中谷は、腕時計で時刻を確認する。
 せめてあと、三十分。
 それだけ待って、もう一度だけ電話をして。それでも出なかったらこの場から去ろう、と。
 ハンドルに両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せ、中谷は数軒先の一軒家をじっと見つめていた。
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